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2013年6月

2013年6月28日 (金)

「同じ」なのか「違う」のか。異宗教間・東西教会間。(よくある質問・誤解に答えます)

以下4つのパターンの質問を実際に受けた場合に私がお答えするパターンについて、今日は書きたいと思います。

  1. キリスト教と仏教(ないし神道)って、拝んでいるものが神様か仏様の違いというだけで、両方とも同じ似たような宗教なんでしょ?
  2. 正教会とカトリック(ないしプロテスタント)って、両方とも同じキリスト教なんでしょう?
  3. キリスト教と仏教(ないし神道)って、全然違うんだよね?戒律がすごく厳しいのがキリスト教で、すごく緩いのが仏教だっけ?あれ?逆?
  4. 正教会とカトリック(ないしプロテスタント)って、全然違うんだよね?三位一体も信じてないんでしょ?カトリックが一番古くて、プロテスタントが新しくて、正教会ってなんか変わった教会なんだよね?

大体、1と2のパターンでは「いや、違いはありますよ。それはかくかくしかじか」と答えて、3と4のパターンでは「いや、そこまで違わない。同じ所もありますよ」と答えてます。

何か天邪鬼のようにも思えますが、そうではありません。大体、

  • 思われている程には違わない
  • 思われている程には同じでは無い

が当て嵌まるんです。要するに極端に違うと思われているか、極端に同じと思われているかの二パターンが多いのです。

上記の4つの質問パターンへのそれぞれの私のお答えを書いていきます。

質問1.キリスト教と仏教(ないし神道)って、拝んでいるものが神様か仏様の違いというだけで、両方とも同じ似たような宗教なんでしょ?

拝んでいるものが違うことは勿論ですが、生活にどのように信仰を活かすかといった場面や考え方においても、小さく無い違いがあります。

そもそも「拝んでいるものが違う」ことは「大した違いでは無い」という発想自体に何らかの価値観が投影されています。たとえば「愛している異性が誰なのか」は「大した違いでは無い」とは思われませんことを考えてみましょう

「宗教においてはそうした『誰を拝むか』は大きな違いでは無い」という考え方も人によってあろうかとは思いますが、少なくともそう考えない人も居るということです。

質問2.正教会とカトリック(ないしプロテスタント)って、両方とも同じキリスト教なんでしょう?

確かに、正教、ローマカトリック、プロテスタント、いずれもキリスト教ではあります。正教会においてもローマカトリックの洗礼は有効としますし、プロテスタントの洗礼も一定の条件と手続きを満たせば有効とします。同じくキリスト教だからこそ、そうした事が可能です。

しかし小さく無い違いがあることも事実です。

聖伝の位置付け、イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の復活に際しての地獄降りの見方の違い、原罪観の違い、ローマ教皇の地位・権限をめぐる見解の違い、など色々挙げられます。

直接的な違いとして挙げる事が出来る教会生活での例としては、痛悔(つうかい、正教会以外では懺悔等とも)における神父の応えです。正教会においては「償い」は求められませんが、ローマカトリックでは「償い」が言われます。その背景にある違いは決して「小さな違い」ではありませんし、教会生活の日常にはっきりと表れる違いでもあります。

質問3.キリスト教と仏教(ないし神道)って、全然違うんだよね?戒律がすごく厳しいのがキリスト教で、すごく緩いのが仏教だっけ?あれ?逆?

「戒律」というのがどのようなものを想定して仰っているのかよく分りませんが、おそらくそのような御質問をされるように思われているほど大きな違いはありません。

特殊なカルトでもなければ、一定程度嗜好品やお酒といったものについて節制をし、拝金主義や即物的な生き方に陥らないようにして、出来る限り善い生き方をする、献金・お布施は生活が破綻しない程度に、しかし信仰心から納める。表面的に表れるこれらの要素については、そう大差ありません。また、「殺すなかれ淫するなかれ」は、キリスト教でも仏教でも共通する倫理でしょう。基本的な倫理面では共通するところは多々あります。

「教え」については小さく無い違いはあるものの、それは「戒律の厳しさ」と単純に言えるように表れるものではない、と言えます

キリスト教の中ではお酒を一切禁じる教会もありますが、そうでない教会もあります(正教会は飲み過ぎは勿論戒められますが、お酒自体は禁じられていません)。この辺りは仏教でもお寺・宗派ごとの違いや個人差があると思われますが、それと同じです。

なお、「お酒を禁じる教会が戒律が厳しく、禁じない教会は緩い」かというと、それも一概には言えません。

お酒を禁じて居ない正教会は、ハリストス(キリスト)の体と血になったパンとブドウ酒を頂く礼拝(聖体礼儀)の前晩(深夜0時が目安)から、断食をする習慣を今でも守って居ます。

他方、お酒を禁じるか基本的に飲まないようにするプロテスタントの多くの教会は、こうした断食の習慣を残して居ません。

さあ、どちらが「厳しい」と言えるかは微妙なところです。しかも注意しておきたいのですが、信者の大半は、この程度の節制を「厳しい」とは思って居ないことがほとんどです。習慣として定着して居ますから。

大雑把にまとめますと、身体を痛めつけるような苦行が問題になるようなカルトは別として、大体の伝統的教会は、一概に「どちらが厳しい、どちらが緩い」とは言えないという事です。

質問4.正教会とカトリック(ないしプロテスタント)って、全然違うんだよね?三位一体も信じてないんでしょ?カトリックが一番古くて、プロテスタントが新しくて、正教会ってなんか変わった教会なんだよね?

三位一体は正教会も信じて居ますし、イイスス・ハリストスが真の神であり真の人でいらしたことについて正教会も信じて居ます。

少なくとも正教会は、自らの教会が最も古く伝統的でかつ正統的と考えています。西方教会(カトリックやプロテスタント)が正教会から分かれて行ったと考えます。

これについては、それぞれの教会の主張があります。私も、「客観的に正教会の主張が正しい」と強弁するつもりはありませんしそうするべきでもありません。ただ、あくまで正教の信仰に入れば、必然的にそのような見方になりますし、「客観的に証明」は難しいとしても、そう信じられるだけの根拠は存在しています。

他方、こうして正教会は自らの正統性を自覚しているわけですが、正教会と西方教会が、「全く別物」(どちらかがキリスト教で、どちらかはキリスト教では無い、とか)かというと、それもまた言い過ぎです。

西方教会において父と子と聖神(せいしん、聖霊)の御名によって授けられた洗礼は、正教会においても一定の条件を満たせば有効とされるわけです。正教と西方教会は「全く別物」であれば、正教において西方教会の洗礼が有効になど成り得ません。

ただし、正教会における領聖(りょうせい、ハリストス:キリストの尊体尊血となったパンとブドウ酒を頂くこと)は、正教信者のみが可能であり、西方教会(ローマカトリック、プロテスタント)の信者には許されて居ません。それはやはり他の教会とは違うという事の表れでもあります。違いはやはりありますね。

-------------

以上のように、

  • 思われている程には違わない
  • 思われている程には同じでは無い

大体こういう方向で、それぞれの極端な見解を和らげる方向に御答えするようにしています。

2013年6月27日 (木)

「ふしぎなキリスト教」は要旨・大枠からして滅茶苦茶です…

以下、ふしぎなキリスト教の要旨です。

  1. 神はキレまくるエイリアン
  2. Godを信じるのは、安全保障のため
  3. 安全保障が成り立って居ないのに信仰が衰えないのは、いじめられっ子の心理
  4. キレまくるエイリアンですが神はナンパする、これも愛
  5. 復活は枝葉末節
  6. 聖霊は連絡手段
  7. 皇帝教皇主義で一致している正教会は分裂
  8. よく解らないたとえ話を解説しますが、やっぱりよく解りません
  9. 可愛いコを贔屓するイエス
  10. キリスト教が成立したのはパウロ書簡によってです。パウロ書簡を引用しませんが。
  11. いやキリスト教ってふしぎですねえ
  12. プロテスタントには、無数の教会があります。プロテスタントでは、教会は重要では無いのです。
  13. 仏教は唯物論です
  14. 日本の神様は大体みんな友達か親戚みたいなもの
  15. よく分らないんですが社会に大きな影響を与えて居るのは間違いありません(教えはよく分らないんですが、数が三つあれば全部三位一体の影響と根拠無く思い込んで間違いないです、聖霊は連絡手段ですが)

…えーっと、これで「キリスト教が分った」と仰っている方は、本気でそうお思いなんでしょうか?

(以下、斜体字は要旨要約であって引用文ではありません。各種引用はこちらを参照)

復活は枝葉末節」なら、その復活が示された日だということで日曜日が休日になっていて皆が教会に行っているのは、どう説明出来ますか。「枝葉末節」のために休日になっていて教会に行くんですか?

キレまくるエイリアンナンパする、これも」が、西欧米における「神の愛」をテーマにする諸芸術作品・傑作の背後にあるモチーフなんですか。

正教会は政治的リーダーと教会のトップが一致する体制です、で、教会が次々に分裂」って、257頁冒頭の僅か3行。「一致」しているのか「分裂」しているのかどっちなんですか。これが正教会について言及している内容の全てを要約したものです。大したものです。3~4行で矛盾ってそう簡単に出来る芸当ではありません。

プロテスタントには、無数の教会があります。プロテスタントでは、教会は重要では無いのです。」(p292, p294参照)「重要では無い」のになぜ「無数の教会がある」のか?

仏教は唯物論って、良いんですかね、こんな事書いて。

日本の神様は皆友達か親戚?祟り神はどこへ?

分らないですね。ふしぎですね。ふしぎでよく分らないんですが、何でもかんでもキリスト教の影響なのは間違いないんですね。」って、先行研究も伝統的見解も一切無視して無根拠に思い込みを連発している本支離滅裂な要旨(というか箇所によっては要旨すら無い)の本

著者も、「分った」と感想を述べる人も、それこそ私は不思議です。

「解り易い」と仰る皆様にぜひ伺いたい、この本を読んで「具体的に何を」「どのように」「分った」と仰るのですか。(これまでほぼ例外なく「何がどのように分ったのかを言わずに賞賛するか、言っていたとしてもその根拠は既に挙げた誤りに置かれて居る」のです)

この「ふしぎなキリスト教禍」、まだまだ終わる気配がありません。これをもてはやすクリスチャンや学者がまだまだ居るのです(さすがに学者からは賞賛の件数は減ったようですが)。私ももういい加減止めにしたいのです。「ふしぎなキリスト教」に対して、批判が主流となったら即、私は手を引きます。

2013年6月18日 (火)

キリスト教徒じゃない人の方がキリスト教をよく理解できるんです?

どうも表題のような思い込みをされている方って、結構いらっしゃるんですよね…。

◇ 「信者になる気は無いので、理解だけはしたいけれど、信者の話を聞く必要は無い。」と仰る方。
◇ 「キリスト教徒はどうせキリスト教の事を盲信して、客観的に見えて居ないんでしょ?」と仰る方。

こうした需要に応えて、

◆ 「信者ではありませんので(もしくは信者であることを言及せず隠して)、私はキリスト教について客観的に語れます。参考文献?クリスチャンが書いたものは信用ならないし押しつけがましいので、非クリスチャンの社会学者が書いたものを4~5冊読み、聖書は斜め読みしておきました。」と仰る方

が登場します。本も売れます。需要と供給が一致しました。めでたしめでたし。

…ではないでしょう。

ちょっと考えてみましょう。私は神社やお寺と殆ど接触する機会なく過ごして来ました。
そんな私が、ちょっと4~5冊、本(それも100年前に書かれた非専門家による本とか、通俗的な本)を読んで、それで同じような事を言ったら、どうでしょう?

◆ 「信者ではありませんので、神社ともお寺とも殆ど関係がありませんので、私は神道や仏教について客観的に語れます。参考文献?神職、住職、氏子、檀家が書いたものは信用ならないし押しつけがましいので、クリスチャンや無神論者の学者が書いたものを4~5冊読み、古事記・経典は斜め読みしておきました。」

単語を幾つか入れ替えたら、おかしい、変だ、と思われるのではありませんか?

その通りです、同じおかしさがあるんですよ。単語を入れ替え直しても。


正教の信者になる前、大学時代、私は半年強ほど禅のサークルに入っていた事がありましたが(※)、それで一つ知った事があります。キリスト教に限らず、仏教にも伝統と実践がありますし、膨大な経典がありますし、考察もあります。

カルトに行ってしまう危険性は警戒してもし過ぎる事はありませんが、その宗教の事が知りたければ、カルトでもないかぎり、まずその宗教の人達が書いたものを読む事です。結局それが一番近道です。

外部の人が書いたものは、「宗教評論家教」「キリスト教評論家教」「仏教評論家教」になっていることが少なく無い。結局は「評論家教」というものを後で点検していかなければならないという二度手間になる事が少なくありません


また、もう一つの混乱の原因として、「客観的」という言葉の意味が間違って広まっているという問題もあります。

大辞泉より

主観または主体を離れて独立に存在するさま。

特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。「―な意見」「―に描写する」

(引用ここまで)

…これを読んで、「【2 特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。】とあるじゃないか。だから【キリスト教にとらわれず物事を見たり考えたりした方が客観的】じゃないか」と思われた皆様、どうか待って頂けませんか。

特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。】というのは、

● 反キリスト教という立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。

● 「キリスト教徒はキリスト教を盲信しているので言い分を考慮する必要は無い」という立場にとらわれず、以下略

● 仏教、神道、無宗教、無神論、不可知論、という立場にとらわれず、以下略

…こういった事も言えますよね。


まとめ

「キリスト教徒が書いたものは信用できない」といったパターンの思い込みは、「仏教徒が書いたものは信用できない」というように、同じパターンで単語を置き換えてみて、本当におかしくないかどうか考えてみて頂けませんでしょうか。

「外部の人なら信用出来る」は、独自の「評論家教」を鵜呑みにしてしまい、結局正しい理解をするにあたって二度手間になってしまう危険があります。

「客観的」というのは、「キリスト教徒の言う事は信じない」を意味しません。「客観的」って結構大変なんです。


※ 「神社やお寺と殆ど接触して居ない」私にとって、ほぼ唯一仏教の片鱗に触れるような体験でしたが、仏教サークルではなく禅に特化したサークルでの、週に1度坐るだけの極めて限定的な体験で「仏教が分った」どころか「仏教に触れた」とすら言うつもりもありませんし、またそれは適当でもありません。

2013年6月17日 (月)

正教会ってギリシャ正教会とロシア正教会ですよね?(よくある質問・誤解に答えます)

カテゴリ:正教についてのよくある質問・誤解に答えます

質問:正教会ってギリシャ正教会とロシア正教会ですよね?

Orthodoxchurches_2 答え:正教会には、他にももっと沢山の教会組織があります。コンスタンディヌーポリ総主教庁(コンスタンティノポリ総主教庁)、アレクサンドリア総主教庁、エルサレム総主教庁、アンティオキア総主教庁、グルジア正教会、ブルガリア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会…などです。

もちろん、これらを全部覚えて頂く必要はありません。

ただ、「ギリシャ正教会」「ロシア正教会」だけが挙げられることがしばしばあるのは、数ある正教会組織の中で日本で知名度が高いツートップ、以上の意味は無いということを申し上げたいと思います。数ある正教会組織の中で、この二者だけを代表扱いとする事には、正確性も合理性もありません。

単に「正教会」と言うのが最も「(正しく)わかりやすい」のです()。

なお、これら複数の教会組織(独立正教会、自治正教会の数々)が存在することを、「正教会の分裂」と表現されているケースがありますが、「分裂」ではありません。

たとえば、娘が母親から財政的に自立してOL生活を始めた場合、「家族関係の分裂」とは誰も思わないはずです。正教会も同じでして、財政的に自立して独立正教会、自治正教会となっても、それは「関係断絶」「分裂」ではありません

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

この 画像(「家族にたとえることができる正教会」) は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承 2.1 日本 ライセンスの下に提供されています。(原著作者が要求するクレジット:クリメント北原、ブログ「神田御茶ノ水草子」)


どういうわけか

  • (正教会は)北はロシア正教、南はギリシア正教
  • 正教会(ギリシャ正教会、ロシア正教会などとも呼ばれる)

などと本や記事などで書かれることがあります。これらは、正教会全体の総称と、個別の教会組織の名称を混同しているものです。

おそらくは、「日本で知名度が高いギリシャ正教会、ロシア正教会と言った方が、正教会についてイメージし易いだろう」という、善意で仰っておいでなのだろうと思います。

ただ、特に作家さんや研究者さんに申し上げたいのですが、こうした「善意」による記述も、どうか今後は、止めて頂きたいというのが率直な願いです。「分り易くした」つもりが、別の誤解(「正教会はギリシャ正教とロシア正教に分れている」「正教会はギリシャ正教会とロシア正教会の二つ」など)を生む元になっていますので…


「ギリシャ正教」(ギリシア正教とも)は、正教会全体を指す通称として使われることがあります。正教会がギリシャ語圏を主に基盤として発展した事に由来していますし、この意味で総称としての「ギリシャ正教」は間違いではありません(日本人長司祭でいらっしゃるイオアン高橋保行神父様も「ギリシャ正教」の書名で本を書いておいでです)

  • ギリシャ一国を管轄するアテネ大主教が指導するギリシャ正教会と、全体の総称としての「ギリシャ正教」は混同しやすい。
  • コンスタンディヌーポリ総主教庁と(アテネ大主教に指導されている)ギリシャ正教会は別組織、といった事情について、少し学びを進めた段階で、かえって混乱を呼ぶ。
  • ギリシャ語だけでなく、シリア語も重要な言語であった時期があった。
  • 東欧に伝道されてからは、それぞれの地域の言語(教会スラヴ語、グルジア語、ロシア語、ブルガリア語、セルビア語、ルーマニア語など)でも祈祷文や関連書籍が書かれ、奉神礼(礼拝)が行われてきている。

といった理由から、私個人は初心者さんに「ウチはギリシャ正教とも呼ばれている正教会です」と最初に説明する時以外は、あまり言わないようにしています。「ギリシャ正教」は総称としても使われるが、「ギリシャ正教会」は総称としてはあまり使われず、アテネ大主教が指導する独立正教会たるギリシャ正教会を指す際に使われることが多い、という事情も絡んで参りますし。

2013年6月14日 (金)

正教会はローマカトリックやプロテスタントとどう違うんですか?(よくある質問・誤解に答えます)

カテゴリ:正教についてのよくある質問・誤解に答えます

質問:正教会はローマカトリックやプロテスタントとどう違うんですか?

答え:特に「カトリックとの違い」を質問されて来られる方が多いですね。主教(司教)は居る、聖体礼儀(ミサ)はある、祭服も使っている、では何が違うのか?と。(括弧内がローマカトリック用語)

プロテスタントは少し調べれば、主教(司教)は居ない、聖体礼儀(ミサ)もしないか少ない教会が多いし理解も全く違う事が殆ど、第一祭服など使わないので見た目がはっきり違う…ということで、「正教とプロテスタントはどう違うんですか?」と聞いて来られる方は比較的少ないです(※1)。

申し訳ありませんが、今回はあまり沢山、具体的に書きません(ですから全然「答えます」になっていないじゃないか、と思われるかもしれません)。具体的な違いは、後日少しだけ書くかもしれません。


● まず、「違いを知る」「違いを説明する」というのは大変難しいのです。

「違いを知る」というのは、とても難しい事です。「違いがある」までは分る事が簡単なものであっても。

例えば日米の文化を比較する際。
日米の文化が違う、までは分ります。
しかし、「どう違うのか」「何が違うのか」を知り、それを総論にまとめあげていくのは大変な事です。日米両国の文化に精通し、かつそれをバランスよく比較出来なければなりません。

正教とローマカトリックを比較する際も同じです。
「正教とローマカトリックは違う」までは分ります(ローマ教皇の有無、奉神礼(礼拝)の違いなどは一目瞭然です)。
しかし、「どう違うのか」「何が違うのか」をまとめ上げて行くのはとても大変な事なのです。特に「まず正教について基本的なところで間違っているような段階で、比較などとんでもない前提知識状態」で「比較」について書いている人をよく見かけるのですが、少々如何なものかと思われます。…これは自戒を込めますが(※2)。


● 同じキリスト教なのに、なんでそんな違いがあるの?

どうしてなのでしょう?私にも解りません。少なくとも言える事は、正教会は「他(西方教会)から分かれた」とは自認しておらず、むしろ「西方が当方(東方)から分かれて行った」と捉えて居るということです。

「違う教えを正教が立ち上げた」という認識はありません。西方教会について言えば、「気付いたら離れて行った人たちが居た」という認識です(※3)。

正教、ローマカトリック、プロテスタントで、無闇に喧嘩したり、最悪な場合戦争になったりするような事はしてはならないことであり、「仲良くすべき」ではありますが(※4)、かといって「違いが無い」と言ってしまうと、これは「偽り」「ウソ」になります。

なお、こういう風に「違い」が存在しているのは、イスラームでも仏教でもそうです。同じ経典、同じ教祖から発している筈なのに、なぜか大きな違いがあります。


● 「何が違うのか」の視点を、いったん脇においてみてはいかがでしょう

たとえば寿司職人は、わざわざイタリア料理と寿司がどう違うかと主張することを必要としません。

寿司屋さんに入るお客さんも「ここはイタリア料理とは違うお店」といったことを(普通・普段は)意識して入りません。「お寿司食べたいなあ」で入るだけです。

正教会でも、単に「正教会の祈りや聖堂を見てみたい、祈って見たい」で入れば良いのです。

まず「ローマカトリックと何が違うのか」ではなく、貴方だけの「正教との出会い」を、五官をフルに使って味わって下さい。考える、比較するのはその後でも出来ます。


※1 本当は表面的な違いよりも、むしろ背景にある聖伝についての考え方とか、聖書に対する姿勢とか、神学についての違い(「神学の違い」だけでなく、「神学に対する態度の違い」も含めて)を挙げて行けば、正教とプロテスタントは見た目通りか、それ以上に違うということが分りますが…1回のブログで書ける内容では無いですね。

※2 いずれもう少し具体的にローマカトリックとの違いを具体的に列挙して行こうとは思っていますが、私の限界があります。特にローマカトリックについては本当に「よく知らない」ので…「私が知っている範囲では、これこれが違うということは判ります」という事しか述べられません。

※3 …もちろんローマカトリックは全く逆の見方をしていますし、プロテスタントにも別の歴史認識がありますが…。

※4 しかしこの「仲良く」も人によって「どのように」で意見が分れるので悩ましいところです。

2013年6月13日 (木)

ニコライ堂はロシア正教なんですよね?(よくある質問・誤解に答えます)

カテゴリ:正教についてのよくある質問・誤解に答えます

ハリストス復活!実に復活!

伝教者として(肩書当時。※参照)ニコライ堂で電話とっていたり拝観客の応対をしていますと、必ず週1回以上の割合で「お宅はロシア正教の教会なんですよね?」という問い合わせが来ます。

違います。
ウチは「正教会」の教会であって「ロシア正教会」ではありません。

Orthodoxchurches_2

「正教会」が教会名
「ロシア正教会」というのはロシア連邦を主に管轄する教会組織の名称です。
ちなみにニコライ堂は、教会組織上は日本正教会に所属しており、その首座主教座大聖堂としての役割を担っています。

これは、「瑣末な事柄にこだわっている」のではありません。
そういう質問をして来る人は十中八九、「ロシア正教っていうのは、ロシアに独特な、フツーじゃないキリスト教だけど。それが日本にもあるんだね。」という風に誤解しています。

しかし、組織としてのロシア正教会のみが有する教義・教理・神学などありません。
グルジア正教会、ブルガリア正教会、ロシア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、ギリシャ正教会など、多くの個別の組織が、同じ信仰・教義・教理をもって、同じ正教会の一員として、聖なる公なる使徒の教会を形成しています。

…お問い合わせに応対する際には丁寧に柔らかく申し上げますが、いつになったらこうした誤解が日本から無くなるのかと、正直言って暗澹たる想いが内面にはあるのも事実です。

カトリックは「イタリアの教会」とは思われない。
プロテスタントは「ドイツの宗教」とは思われない。
聖公会は「イギリスの宗教」とは思われない(※)。
…しかし正教会だけは「ロシアの宗教」、あるいは別のケースでは「ギリシャの宗教」と思われることが非常に多いのです。

※歴史好きな人は「聖公会」=「英国国教会」と思うかもしれませんが、しかし歴史に特に興味の無い一般人が「聖公会」と聞いて「ああ、イギリスの」 とは思わないでしょう。逆に、特に興味の無い一般人が「正教会」と聞けば「ああ、ロシアの」「ああ、ギリシャの」と思われるでしょう。

最終的には外部の方の印象にまで、私が立ち入ることは出来ません。
もちろん、きっかけとしては、「ギリシャ好き」「ロシア好き」から正教の門を叩かれることもアリですし、歓迎申し上げます。ようこそ正教会へ!

しかし内部の信仰者としての立場から申し上げれば、
正教は「聖なる公なる使徒の教会」
なのであって、特定の国や地域に限定されるものでは無いということは、前提として強調しておきたいと思います。


抽象的な話ばかりでは解り難いと思われますので、具体的な私のケースを挟みたいと思います。

私の聖名の「クリメント」は、アレクサンドリアの聖クリメント(クレメンス)や、オフリドの聖クリメントといった、東地中海や東欧で活躍された聖人から頂いたものではありません。

ロマのパパ・クリメント(ローマ教皇クレメンス1世)です。

私は東西教会分裂以前の聖人のお名前で、アメリカ人宣教師と、牧師である父から、プロテスタントで幼児洗礼を受けました(父の所属する教派では幼児洗礼自体珍しく、私の幼児洗礼についても色々そこそこ、教会内で議論があったと聞いています)。

正教に帰正する際には、聖名を変えるかどうかで悩みました。が、結局変えませんでした。実は帰正してから知ったのですが、聖クリメントはクリミア半 島に流刑になってそこで致命されておいでです。「西から東に流されて死ぬ」生涯を送られた聖人の名前が私に与えられたのも、きっとただの偶然では無く神の 御心 だったのでしょう。

4歳の時に「東地中海の方で土着化した独特のキリスト教があるから、勉強になるから連れて行く」と父に言われて見学に行ったニコライ堂の奉神礼の印象が幼心に強烈で、それ以来ずっと心に引っ掛かっていた、それが私の正教との出会いでした。

特に「ギリシャやロシアが好きだから」行った訳ではありませんし、両国含む東欧に特に関心・興味があった訳でもありません。むしろ(有体に言って)領土問題などから、ロシアに対しては総じて良いイメージはありませんでした。

ただ予備校時代、決定論・無神論に陥って苦しんでいた時に、「ロシアの教会」「ギリシャの教会」ではなく、あくまで「教会の一つ」として、駿台予備校の近くにあったニコライ堂に行き始めた、それがスタートでした。

今でこそロシアの修道院に行ったりもしていますが、それはあくまで「長い伝統のある教会・修道院に行きたい」という願望に由来するものであって、行先はロシアで無くとも良かったのです。本音を言えば、ユーロよりもルーブルの方が旅が安上がりに済む、それが一番の動機でした。
…今ではロシアと自分は切っても切り離せない関係になっていますが…まさかここまで、自分とロシアとの繋がりが深くなるとは全く思っておりませんでした。しかし私にとってはあくまで「正教→ロシア」の順番に繋がったのであって、「ロシア→正教」ではありません。


『ロシア正教』じゃない、正教会はあくまで聖なる公なる使徒の教会である」に話を戻します。

なぜ聖なる公なる使徒の教会という前提を強く申し上げるかと言えば、それが教会の教えだから、というのが大前提ですが、他に主に二つ理由があります。

  • ロシアの教会とだけ思って来ると、失望するリスクが高い。←正教徒だからといってロシアに造詣が深いとは限りませんし、親露的とすらも限りません。ドストエフスキーの理解に正教がカギになるなど、正教の理解が東欧の文化理解に資する面は大いにありますし、ロシア文化から正教信仰に入られた方も 大勢いらっしゃいますが、「文化」が「信仰のメイン」と思われる方には、ちょっと心配になります。
  • 「どうせロシアだけの国家宗教でしょ?」とだけ思って、それだけで来ない人が居る。←勿体ない!

正教会は、あくまで救いのために神様が用意して下さったものです。
神の国はこの世のものではありません。
である以上、ギリシャのための教会でもなければロシアのための教会でもありません。
全ての地域のため、(貴方様含む)全ての人を招く正教会です。

ニコライ堂を含め、正教会に見学にいらっしゃる皆様には、「ロシアの宗教」「ギリシャの宗教」としてではなく、あくまでまずは素直に「教会」として、正教会に向き合って頂きたい。それが私の切なる願いです。

以下余談

よく「正教は土着化を目指す」という評を聞くのですが、ローマ・カトリック教会がラテン語を典礼に使っていた50年ほど前までなら兎も角、現代にあっては(数十年以上前までの歴史を語る場面以外では)あまり意味がある評とは思えません。

土着化を目指すと言うのなら、今の西方教会は相当土着化を目指し、各地の慣習を積極的に取り入れようとして居ます。
むしろ正教の方が、文化的多様性を無邪気に肯定するのではなく、「文化的な違いはこれまでと同様に尊重するが、聖なる公なる使徒の正教という視点もこれまで同様に尊重する」という、伝統的なバランスの着地点を、伝統的に苦慮して模索し続けているように私には思えます。

「呉服・着物を着た聖母子像の御絵」をカトリック系のお店でよく見かけますが、「呉服を着た生神女(しょうしんじょ)マリヤのイコン」は、多分日本正教会でも出て来ないと思われます。

※ 肩書当時。本文章は、前ブログを閉めた事に伴いネット上から除去した2012年4月25日 (水)に書いた文章を、一部修正の上で復活再掲したものです。

2013年6月11日 (火)

キリスト教って難しい?(よくある質問・誤解に答えます)

カテゴリ:正教についてのよくある質問・誤解に答えます

「キリスト教って難しくないですか?」という未信者(非信者)さんからの質問に対して。「私は難しいとは思いません。」はい終了…では始まりませんよね…

色々な視点からお話し出来ますが、ここでは二つだけ。


まず、「今、ある程度は分らないのは当然だと思いますよ」ということ。

私からすれば仏教こそ分らないです(神道も分りません)。

私は自分の住んで居る地域(東北・関東)が、親戚がたくさん住んで居る地域(関西、九州、中部、北陸)からはいつも離れていましたので、父方も母方も親戚達には仏教が多いのに、親戚同士でお寺で法事を行うといった経験がほぼ全くありません。つまりお寺との接点がほぼありません(ついでに、神社との接点もほぼありません)。

でも、こういう状態の私が「仏教は難しい」と言って良いのかどうか?単に「知らない」「接点が無い」だけだ、と仏教関係者からは思われるでしょうね。

それと。を使うのも、箸を使わない地域から来た外国人は、最初使うのに非常に苦労します。しかし半年も日本に滞在していれば、大体使い方を覚えます。

キリスト教も同じ事。要するに「難しい」と思っておいでの方は、「接点が無かったので今は分らない」「今はまだ慣れて居ない」だけでは?ということです

接点を増やそうとする前に「難しい」と言うのは語弊があるでしょう。単に「今は分らない」「今は知らない」のです。そして全く恥ずかしくありません。これまであまり触れてきたことがなければ、それは当然なのですから。気楽に正教会の神父に聞いて下さい(※1)。


次に、一部「難しそう」なところはあるにはありますが。「〇〇は難しい部分がある」というのと「〇〇は難しい」は違いますよ、ということ。

例えば、「自動車は難しいですよね?」という質問があったとします。

自動車の何が難しいのでしょうか?運転でしょうか?エンジンでしょうか?設計?組立のプロセス?メンテナンス?

どこに目を向けるか、どんな場で受け答えをしているかで、「難しい」かどうか、変わって来るのではないでしょうか。

自動車整備士も、「自動車って難しいですよね?」と、技師でも無い一般の人から聞かれたら、「…いえ?運転するだけならそんなに難しく無いですよ?」と思うのではないでしょうか(※2)。

正教の司祭である私も、「キリスト教って難しいですよね?」と言われた場合、「…いえ?信仰生活を送ることはそんなに難しくありませんよ?」と答えます(※3)。

もちろん神学部に行きたいとか、神学校に入って教会のために働きたいとか、そういう方からの質問であれば、答えの内容は変わってきます。でもそれは、自動車整備士を志す生徒・学生の疑問に、教師がどう教えどう答えるかは、一般のドライバーに対して答える内容とは違う、というのと、殆ど同じだと思います。


※1 ここで私は「カトリックの神父でもプロテスタントの牧師でも、誰でも良いのでキリスト教について聞いて下さい」とは申しません。この点での価値相対主義を私は認めませんし、正教、ローマカトリック、プロテスタントとでは、言う事が大分違います。三位一体などの教義については一致する所も少なく無いのですが、それぞれの違いを見ない振りして済ますことは出来ません。

※2 かなりザックリとしたもののたとえですので、この対比にも不十分さがあります。自動車整備士さんに「自動車って難しいですよね?」と質問したら、「運転って難しいですよね?」という意味での質問ではない、とは解ります。ただ、聖職者に「キリスト教って難しいですよね?」という質問は、「質問そのものが漠然としている」ところがあるんです。「…えーっと、信仰生活(運転)について聞いていらっしゃいますか?信仰生活(運転)はそんなに難しくありませんよ。それとも神学(整備)について聞いていらっしゃいますか?それは難しい面もありますが…」という感じが近いかもです(かなり乱暴な対照ですが)。別のたとえとしては、F1ドライバーに「自動車の運転って難しいですよね」と質問している、と言い換えてもいいかもしれません。「…?少なくともスーパーマーケットに自動車で買い物に行くのは難しくないのでは?」とF1ドライバーは思うでしょう(そもそも質問の意味が理解出来ないかも)。

※3 もし信仰生活を送る事が難しいのであれば、どうして「キリスト教信者が多数派」という国が有り得るでしょう?(反語)…加えて「運転」は生まれつきの才能が関わってくる面もあるかもしれませんが、「信仰生活」を「生まれつき」送れない人は居ない、という事も断っておく必要があります。

間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき

関連日記:「ふしぎなキリスト教」は要旨・大枠からして滅茶苦茶です…

橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教』という本が売れに売れています。20万部を突破し、新書大賞を獲りました。多くの「キリスト教のことが解った」という好意的レビューが著名人・一般人問わずなされています。

私はこれをツイッターや、自分の立ち上げたウィキで大いに批判しております。王様は裸です。

本日の記事では、『ふしぎなキリスト教』の内容そのものも酷いのですが、今回は責任ある立場のある人間がこれを評価することについて、簡潔に批判とその理由を示します。

なお、その前に、もっと良いキリスト教入門書を挙げているウィキページ(これも私が管理人ですが)を先に紹介しておきます。「批判ばかりで代案が無いのか、もっと良い本を書け」と『ふしぎなキリスト教』擁護派から言われる事が多いのですが、代案どころか、既にもっと良い本が沢山あるというのが批判の大前提なのです。

「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書紹介

探しも知りもしないで「より良い本が無い」と言うのは失礼極まりないですし、探した上で『ふしぎなキリスト教』が良い、というのであれば、それはもう間違いだらけだろうが何だろうが、もともと、このようにキリスト教をぞんざいに扱って「西欧社会・近代社会を解った気になる」本が欲しかったというだけのことではないのでしょうか。違うとお感じの方は、是非上に挙げました他の良質な入門書(文庫本もあります)を手にとって下さい。

まず、「売れている」ことが即、「良いもの」ではないという当たり前のことを前提として確認しておきましょう。この「ふしぎなキリスト教」を肯定的に語る人が、「多くの人に受け入れられた」ことそのものを価値として語るケースが非常に多いからです。

たとえば好き嫌いは大きく分かれるでしょう、小林よしのりの『戦争論』を、「売れているから良いものだ」と評価することは、否定派は勿論、肯定派でも好意的評価の根拠として「売れているから良い本だ」を真っ先に挙げることはしません。「売れる」ことが即「良い」の理由にはならないことは、普通の場面では皆、解っている筈なのです。たとえば欠陥住宅が安さゆえに売れに売れたとしても、欠陥住宅が「良い住宅」ということにはなりません。

ところが「ふしぎなキリスト教」に限っては、肯定派の多くが「売れていること」を以て「良い」の根拠にすることが罷り通っている。

※それなら聖書の方が遥かに伝統的ベストセラーです。「売れているものが良い」のなら、聖書そのものを勧めては如何かと思うのですが。

別に「ふしぎなキリスト教」に頼らずとも、他に批判者側が挙げる良質な入門書は沢山あります。なかでも批判者のほぼ全てが推している八木谷涼子氏の入門書(『なんでもわかるキリスト教大事典』 (朝日文庫)  八木谷涼子 ISBN 9784022617217)は、刷を何度も重ね、再版までされました。「(出鱈目だらけの)『ふしぎなキリスト教』を上回る本が無い」と言われますが、既に書かれています。「ふしぎなキリスト教」を「これ以上の本が今のところ無い」といった書評を書いた方は、もっと本を探されることをお勧めします。他の誠実な著者達に大変失礼なことを言っていること、そして他の良質な本が広まるきっかけを潰す働きをしてしまっていることへの自覚を持って頂きたい。

※「批判するのならこれを上回る本を書けばいい」と著者の一人大澤真幸氏は述べていますが、こうした出鱈目本を書いたことに何の羞恥も無く、「これを上回る本は無い」と思いそのように発言する傲慢さ・厚顔さに全く驚くほかありません。

先ほど、欠陥住宅の例を出しましたが、ふつう、商品に欠陥が膨大にあれば、総合的にも悪いものと看做されます。幾らデザイン・価格・機能が優れているように見えても、構造計算に欠陥があって強度が不足していれば、住宅としての最低限の用を満たさないと判断され、損害賠償の対象となり、一切が評価されません。

本も同じです。

大体、誤植が3頁に1個の割合であるような本だったら、返本・返金を求めるでしょう。それが「誤植」どころか、『ふしぎなキリスト教』は3頁に1個の割合で「明らかな誤り」があるのです。これは「重箱の隅」ではありません。重箱の3分の1の食べ物に腐った部分があったら、それを指摘するのは「隅をつつく」とは言いません。

※どのような具体的な誤りがあるかは、「間違いだらけのふしぎなキリスト教」をご覧下さい。かなりの割合が高校世界史レベルの間違いです。

「大枠の議論が合って居ればいい」と仰る方もいらっしゃいますが、その「大枠の議論」を補強するために使われている論拠に、3頁に1個、誤りがあるのであれば、「大枠の議論も怪しい」と思うのが普通の感性でしょう。

先ほどの例で言えば、たとえば小林よしのりの漫画に3頁に1個、(議論が分かれるレベルのものではなく)たとえば平安時代と室町時代を間違えているクラスの誤りが数頁に1か所の割合で存在していたら、論敵からどれほどの批判がされるかは想像に難くありません。

「平安時代と室町時代を間違えているクラス」というたとえは、決して誇張ではありません。実際、橋爪大三郎は「東西ローマ帝国の分裂(395年)後しばらくして(東西)両教会合同の公会議が開かれなくなった」などと言っていますが、最後の全地公会議は約400年後の787年に開かれています。約400年間という時間に主要な因果関係を設定し、「しばらくして」という表現をすることが妥当でしょうか?こういうレベルの誤りが膨大にある対談につき、本当に「大枠では面白く解り易い」話が成立していると言えるのでしょうか?


左右の歴史認識論争では絶対に通らないクラスの間違いが、キリスト教入門書で堂々と罷り通って賞まで獲得した。この事実そのものが、日本においてどれほどキリスト教がいい加減に扱われているかを示しています。

いや、仏教は唯物論であると言ったり、「多神教では神との対話など出来ない」と言ったり、イスラムについての基本的無理解などを鑑みれば、宗教全体がいい加減に扱われていると言っていい。大体、仏教や多神教の説明をみて「あれ?おかしいぞ。キリスト教についてもこんな調子なのか?」と殆どの人が思えない辺りが、日本人がキリスト教のみならず、仏教も神道の事も何も知らずに、ぞんざいに扱っていることが解ります。


このように(他宗教もそうですが特に)キリスト教がいい加減に扱われている現状に対して、事態の悪化を食い止めるどころか、「大枠で面白く解り易ければいい」として評価する知識人・書店が大勢居る。あろうことか賞まで与える組織がある。このような「片棒を担ぐ」行為をしている人を、私は強く批判せざるを得ません。


以上のような信教に関係ない誤謬だけが問題ではありません。キリスト教関係者内部の問題があります。


キリスト教関係者が「キリスト教入門書」を評価するのなら、

* 基本的な事実誤認が無いか
* 超教派を謳っているものであれば、教派ごとの中立的観点は満たしているか
* 教会に足を運び、救いのきっかけとなるものか

以上3点を評価のポイントとすることについては、そう異論は無いと思われます。

そして「ふしぎなキリスト教」はどれも落第点です。

基本的な事実誤認についてはウィキをご覧下さい。

教派ごとの中立的観点ですが、『ふしぎなキリスト教』は殆どが通俗的かつ乱暴な予定説に貫かれており、正教会における共働説、ローマ・カトリック教会における幅広い考え方、聖公会・プロテスタントにおけるアルミニウス主義などは全て無視されています。ちなみに橋爪氏はルーテル教会の信者なのですが、ルター派にはP.メランヒトンもおり、『ふしぎなキリスト教』で単純化されたような予定説一色ではありません。御自分の所属教派の考え方も歴史も一切知らないで、一体何の入門書でしょうか。

ただでさえ「キリスト教と言えば予定説」という誤解が罷り通っている日本において、誤解を助長するだけです(誤解に阿る傾向があるからこそ売れたのだとも言えます)。

教会に足を運び、救いのきっかけとなるかについては、読んだ人にとってはもはや自明でしょう。成り得る筈もありませんし、はなからそのような目的は著者二人にはありません。著者二人は「欧米理解のため・近代理解のため」に書いて居ます(その目的も達せられないほど酷い内容ですが)。

神は「キレまくるエイリアン」、聖霊は「連絡手段」、ハリストス(キリスト)の復活を含めた奇蹟は「傍証・付録みたいなもの」、Godを信じるのは安全保障のため、…こんな言葉が羅列されている本を読んで、誰が「教会に行きたい、教会で救われたい」と思えますか?

この本を勧める牧者・キリスト教関係者に、私は大きな疑問を感じざるを得ません。


最後に申し上げます。

こうした出鱈目な「キリスト教入門本」は、巷間に溢れています。出鱈目な知識や設定に基いた小説・漫画は山ほどあります。

それら全てを批判するべきだとは私は思いません。特に小説・漫画などは「それを読んで勉強できる」とは思われていないことが殆どですし、数々のパロディ作品にまで一々目くじら立てるべきだとも思いません。小説・漫画・映画などは多少の間違いがあっても面白ければいい、と評価されることは(限度はありますが)アリだと思います。

そして私も、4か月ほど前までは、「ふしぎなキリスト教」もそれほど批判する必要はないと思っておりました。「またコンビニに並んでいるハウツー本クラスの出鱈目本が一冊出たのか。新書といっても最近は玉石混交だし」程度にしか思いませんでした。

ところがこれが「新書大賞」を受賞し、あれよあれよと言う間にキリスト教各界で肯定的に評価されて「教会はこれを真剣に取り上げなければならない」とまで言う牧者・教授がキリスト教の中から少なからず出てきている。

評価する動きがキリスト教・大学から出て来なければ、私も別にここまで批判することはありませんでしたが、ここまで酷い状況は看過することは出来ません。教会全体が批判する必要があるとは思えないほど馬鹿げた本ですが、数人ほどは、教役者から批判の声を挙げた方がいい段階に来ている。私はこう判断し、ツイッターと、自身が立ち上げたウィキで批判を行うに至りました。現状、ウィキの執筆は私一人ではなく、もう二人、御協力を頂いております。同労者の方に感謝しております。

なおウィキシステムを使ってはおりますが、「誰でも編集出来る」ようにはしておりません。管理者の承認が必要な形態をとっております。


※たとえば仏教やイスラームについて、一冊読んで「解った」などという事が有り得るのでしょうか。いや宗教に限らず、哲学・藝術・自然科学でも、一冊読んで「解った」などという事は有り得ません。なぜかキリスト教だけは「入門書」が山ほど売られ、八木谷涼子氏によるような一部例外を除き、人を「解った気にさせる」悪習がある。そろそろこの悪習をやめるべきです。

※ 本文章は、前ブログを閉めた事に伴いネット上から除去した2012年5月25日に書いた文章を、復活再掲したものです。

2013年6月 5日 (水)

「本当に伝えたいこと」と、「よくある質問・誤解」の間 (2)

正教に限らず、キリスト教に対する誤解や誤りは、宗教学者と言われる人たちですらとんでもない事を言っているほど、広くみられます。

こうした誤解や誤りに対して指摘するのではなく、「地道に基本から説明すれば、自ずと誤解は解ける、もっと努力して地道に説明するべきだ。」、という御話をよく目にしたり耳にしたりします。

一見尤もですし、仰る方の善意は分るのですが、私は現状認識が根本的に間違っていると思います。

「誤解している」状態の人に、個別の誤解を解く前に、「キリスト教について基本的なところから地道に説明する」のは、まず不可能だというのが現実的実感です。例を三つ挙げて説明しましょう。

個別具体例についての詳しい説明は、今後別の日記で書いていきます。


━「キリスト教は肉体を否定する宗教だ」と誤解されているケース━

「肉体を否定する宗教」と言われて、たとえば武道家、医療関係者が教会に話を聞きに来ようと思うでしょうか?

実際には正教だけでないキリスト教全てに、医療関係者の信者はもとより、武道家の信者(ロシアの「システマ」などは正教の影響を前面に出して居ますね)も居ます。

それだけで「肉体を否定する宗教」というのは誤った主張だと分るはずと思うのですが…。

もし肉体を否定するのだったら、遺体を土葬せずに、原始仏教やヒンドゥー教のように散骨していたでしょう。

正教会では遺体の額に巻かれたイコンに接吻し、遺体との別れを非常に大事にしています。一方、日本の伝統宗教ではふつう、肉体は穢れたものとされ、葬式から帰ったら塩を撒かれます。一体どちらが肉体を大事にしているか…感想は分れるでしょうが、少なくとも一方的に「キリスト教は肉体否定」と言うのは、見当違いです。

「肉体は魂の牢獄」としたギリシャ哲学の考え方を、キリスト教は一貫して否定して来ました。イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)が肉体をもって復活したことは、肉体が本質的に穢れたものでは無い事の証です


━「ニコライ堂や函館ハリストス正教会はロシア正教」と誤解されているケース━

Orthodoxchurches_2 まず、「ロシアの教会」と言うだけで足が遠のく人が多い、というのが残念ながら偽らざる現実です。隣国というのは大体、仲が良く無いというのが残念な現実で、日露関係も例外ではありません。

逆に、「ロシアの教会だからロシア語やロシア文化の本場が味わえる」と思って来られる方は、ロシア語を話せる信者が殆どおらず(※1)、祈祷はほぼ全部日本語で、ラフマニノフの聖歌など一切歌われていないという現実に、大概、期待を裏切られます(※2)

「ロシアの教会だから来ない。」というパターン。

「ロシアの教会だと思って来たら期待していたものと違った」というパターン。

まず、誤解を解きませんと、こういうケースが後を絶つことは無いでしょう。ニコライ堂は正教会の教会です。教会スラヴ語での奉神礼(礼拝)を見たい・聞きたい方は、ロシア正教会の駐日ポドヴォリエ(出張所)がありますので、そちらにお越し頂ければと思います。

もちろん、ギリシャ正教会、ルーマニア正教会、ロシア正教会、セルビア正教会、日本正教会、全て同じ正教会ですから、「ロシア文学を訳しているのですが、正教会の概念・用語について聞きたい」といった御質問であれば、一定範囲内で御答え出来ます

要するに

  • 「ロシア特有のものと思って門をくぐらないのは勿体ないです」 
  • 「ロシア『文化』をあまり過度には期待しないで下さい」(勿論「きっかけとして」ロシア文化があった、という方は大歓迎です)

ということです。


━「キリスト教は西欧・米国の宗教だ」と、口にするまでも無く思い込んで居るケース━

「西欧・米国中心の思考から脱却しなければならない」と仰るほとんどの方は、「キリスト教」を「西欧・米国のものだ」と、言うまでも無く思い込んでいらっしゃいます。

そういう人も「西欧・米国の宗教に用は無い、聞く耳持たない、西欧・米国の考え方を否定する」と頑として思い込んで、文字通り話を聞いて下さらない。

…まず思い出して頂きたいのですが、キリスト教の発祥の地はどこだったでしょうか?エルサレムは西欧・米国でしょうか?

違いますよね。中東、現在のイスラエルにあります。つまり西アジアです。

なんとキリスト教は(西)アジア発祥の宗教だった(どーん)

「でもでも、発祥は西アジアでも、発展したのは西欧でしょw?」と思われた方。ここから先は初めて知る方もいらっしゃるかと思いますが、キリスト教の神学の中心地は当初、アンティオキア(現シリア・トルコ)と、アレクサンドリア(現エジプト)でした。最初期のキリスト教の異端論争において活躍した神学者達の多くが、シリア、エジプトから輩出しています。

キリスト教が初期に発展した場所すらも中東(シリア、エジプト)でした(どどん)

西欧・米国で多数派を占めているカトリック、プロテスタントといった、キリスト教のうちの西方教会は、確かに西欧・米国の主流派と言っても間違いではないものの、「キリスト教は西欧・米国のもの」と考えているならば、その思い込み自体が「キリスト教の本場は西欧・米国である」という、西欧人が考え出した西欧中心主義から脱却出来て居ない思考形態に陥ってしまっているのですそのようにお考えでいらした方は、どうか今後お気を付け下さい。

初期教会から現代に至るまで存続する系譜を持ちつつ、シリア、エジプトには1割から2割のキリスト教徒(多くが東方教会の信者)が現代も居ますが、イスラム原理主義の台頭によって、現地で様々な迫害に遭って居ます。「キリスト教の迫害」は中東で現在進行形です。シリアのために祈りましょう。

トゥギャッターまとめ:シリアにおける教会を巡る情勢と、その関連情報


━最初に解くべき誤りはやはり指摘しなければ始まりません━

以上、3つの事例(他にもあるのですが、今回はこれら3つを挙げました)に共通するのは、その性質上、「最初から教会側の説明に耳を傾けさせないようにする」誤解だということです。

多少口うるさいと思われてでも、この種の誤解をまず解かないと、文字通り「話にならない」のです。まず誤解を解いて、話を聞いてもらえる状態になって頂く。次に「美しい歌、イコン」などを示す。そして教会に実際に足を運ばれた方には、信者さん達と交流してもらう。そこで初めて聖書や教理を説明する。そういう流れが現実的です。

なお、この種の「教会の話を聞かせないようにする」誤解を拡大再生産しつつ、「日本ではキリスト教が流行らない」と仰る「宗教学者」が散見されるのですが、こういうタイプの「学者」を形容するのにどのような言葉が相応しいのか、…私にはまだ見つかりません。


※1…同じ正教会ですから、ロシア人、ルーマニア人の参祷者も多いですし、世間に比べればロシア語が話せる人の割合は相対的には多いとは思いますが、それでも全信者の1割は越えません。というよりおそらく、キリル文字を読めるだけの人に限っても、全信者の1割も居ないでしょう。

※2…数少ないロシアの面影で一番分りやすいものと言えば、バザーでボルシチが出て来たり…と言ったところでしょうか。でも、それくらいです。

2013年6月 4日 (火)

教会でのお葬式の作法についての相談から

ハリストス復活!実に復活!

ツイッターなどで私が発言している内容(特に「ふしぎなキリスト教」等を批判する際の発言)を見ると、「正確さばかり主張する堅物」とお思いの方もいらっしゃるかもしれません。

しかし私も、普段からいつでも誰にでも「正確さ」ばかり言っているのではありません。

○ 大切なのは表面的な「作法」ではなく「真心」「配慮」です

つい先日、友人からプロテスタントの教会のお葬式での作法について質問されたのですが(※1)、

プロテスタントでの作法は全く知らない、というか全く覚えて居ないけれど(※2)、『御仏前』と書かれた袋を使ってしまうとか、常識的に考えて『これは無いだろう』と思うようなことでもしない限り、不愉快に思われる事は無いと思う。永眠者のために祈る気持ちがちゃんとあれば、それは神様にも御遺族にも伝わるよ。

と答えました。

プロテスタントの事はその該当教会に聞かないと「正確な事」は分りません。質問してきた友人も「クリメントの信じている正教と、プロテスタントが違うのは重々承知だけれど、自分は教会の事は全く知らないし、他にクリスチャンの知り合いが居ないし…」と言って居て、その事は知って居ました。

ただ、明日教会でのお葬式に行く、という友人に、「正確な作法の知識」は必要ありません。永眠された方の為に祈るという真心が、神様にも御遺族にもまずはよろこばれることです。

もちろん、最低限のマナーというものはあります。例えば

  • 「仏」(ほとけ)といった言葉を弔電や香典袋に使わない
  • (どのような不慮の死であっても)「神も仏も無い」と食事の席などで口走らない
  • 迂闊に祭壇のある区域に立ち入らない

…など。

しかしこれらは、ハリステアニン(クリスチャン)でなくとも、少し配慮すればお解り頂けることでしょう。

表面的な作法より大事なのは、相手(および相手が信じている内容)に対する慮りです。その姿勢は相手にきっと伝わります

研究者やマスメディア関係者さんには「正確さ」が必要

他方、研究者やマスメディア関係者さんには、問い合わせを受けた際にはかなり「正確な内容」を期して私もお答えしますし、「気を付けて書いて欲しい点」についても予め注文させて頂きます。

それは「一般人」と、「研究者」「マスメディア」では、内容が正確さについて負っている責任や期待の度合いが桁違いだからです。活字文化の衰退が言われますが、「本にそう書いてあった」「新聞にそう書いてあった」がまだまだ通用する世の中なのですから。また、非専門家から見れば「枝葉末節」と思われる事であっても、専門的見地からは「枝葉末節」では無い話もあります。

「冠婚葬祭Q&A」といったようなホームページ、本を書かれる方には、丁寧な調査を心掛けて頂きたいですし、その際には「カトリックとプロテスタント」だけでなく、「正教」も、当方にお問い合わせの上で書いて頂きたいものです。

心からの配慮がどちらにも必要です

しかし一般の方でも研究者・記者でも、必要なのは「心からの配慮」という事は共通しています。「心からの配慮」があれば、一般の方は教会でのお葬式で「御仏前」と書いた香典は出しませんし、研究者は安易に「『枝葉末節』はどうでもいい、『分りやすい』本を書いて売れればいい」とは考えない筈です。

大変残念な事ですが、私も間違いますし、時には大きな失敗もします。ですから私が時に厳しく研究者等を批判するのは、誰にでもある間違いや失敗それ自体ではありません。

研究者や記者の姿勢に微塵も「配慮」「責任感」が感じられない時、厳しく批判をしています。

これは他人についてだけの話ではありません。私が「もっと配慮し気を付けるべきだった」時、それは本当に私にとっての罪です。自戒するところでもあります。

※1…この話を本ブログに書くのにあたっては、その友人から許諾を貰いました。

※2…私はプロテスタント出身ではありますが、冠婚葬祭に係わるような年代に達する前にプロテスタントを離れてしまっており、プロテスタントの冠婚葬祭について全く存じません。

2013年6月 3日 (月)

「本当に伝えたいこと」と、「よくある質問・誤解」の間

ハリストス復活!実に復活!

ニコライ堂で「よくある質問に答えます」というプリントを作って、拝観者・来訪者に無料で配って居ます。今の所2種類です。

  • 八端十字架の説明
  • 「ニコライ堂はロシア正教なんですか?」(答え:ニコライ堂は正教会の教会です。ロシア正教会ではありません。詳細はまた改めて)

これらは教会が伝えたい一番大事な事ではありません。伝えたいことは沢山ありますが、復活の福音(コリンフ前 15:11 - 17)が核として外せません。

ただ、教会に拝観にいらっしゃる方々から発せられる質問で最も多いのが、現実としてこの二つなのです。特に後者については、「ニコライ堂はロシア正教なんですよね?」と、「確認」の意味で訊ねて来られる拝観者もいらっしゃいますし、「ニコライ堂はロシア正教です。」と周りの方に(間違って)「説明」されている拝観者もいらっしゃいます。この誤解は大変根深いもので、1年2年で是正される事は無いだろうと腹を括って居ますが、研究者やマスメディア関係者の方から質問が来た時には、訂正を毎回お願いしています。

上記二つの質問それぞれの答えについては、回を改めてブログでも取り扱います。

ただ最近考えて居るのは、「本当に伝えたいこと」と「よくある質問に答えること」「よくある誤解を解く」の間には、大きな違いがある、ということです。

よくある質問に答え、誤解を解くばかりですと、本当に伝えたいことを見失う危険があります。しかし誤解は解いておかないと、本当に伝えたいことが入口から聞いてもらえない危険もあります。

例えば「ニコライ堂で教えられていることはロシア正教というロシアに独特な変わったキリスト教」「皇帝教皇主義によって権力と癒着している正教会」という誤った認識のままの人に、「復活の福音」を説いて、すんなりその人の耳に入って行くかというと、それは大変難しいというのが現実でしょう。

「本当に伝えたいこと」については、既に日本正教会の公式サイトに良い入門書が用意されていますし(PDF)、講談社学術文庫『ギリシャ正教』もお奨め出来る本ですので主にそちらをお奨めします。

本ブログでは、「よくある疑問」「よくある誤解」にまつわるテーマを主に取り扱っていこうと思っております。

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