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2013年7月25日 (木)

イコンの美と場、茶器の美と場、亭主の招き

国立西洋博物館に、(西方教会のものではありますが、正教会と共通する)古いスタイルで書かれた(画かれた)イコンが常設コーナーにあります。現代「イコン」と言えば大概、狭義には正教会でのものを指しますが、西方教会にも古い様式のイコンは無いわけではありません(現代の西方教会では殆ど使われませんが)。

松方コレクションをベースにした国立西洋博物館の常設展は、イタリア・ルネッサンス以降の絵画がその後、続いていくのですが、正直、美術館に展示されている古い様式のイコンというのはそのまま「古臭い」と感じられ、貧弱に感じられます(私の審美眼の問題かもしれませんが)。

この印象は国立西洋美術館でのみならず、トレチャコフ美術館でも感じたことです。


イワン・クラムスコイの絵画に『曠野(あれの)のイイスス・ハリストス』があります。リンク先のウィキメディアの画像ではピンと来にくいのですが、トレチャコフ美術館内にあるクラムスコイ・コーナーの壁一面を占拠する、巨大な絵画です。

この絵を見たいとかねてより思っていたのですが、トレチャコフ美術館を訪れた際、美術史に無知な私は巨大だと言う事を全く知らずに対面したため、驚きと感動で呆然としてしまい、20分間はこの絵の前の椅子に圧倒されて座っていました。

イワン・クラムスコイの絵画『曠野のイイスス・ハリストス』は、教会で使われるイコンではありませんが、全く正教のイコンの伝統と無縁というわけではなく、たとえば衣服の青色と赤色は、それぞれハリストスの神性と人性とを示す色としてイコンに伝統的に使われるものであり、イイスス・ハリストスが神人(богочеловек:ボゴチェロヴェーク)であることを示して居ます。


さて、トレチャコフ美術館には世俗絵画とは別に、イコンも収蔵されています。その中で代表的な傑作の一つがアンドレイ・ルブリョフによる『至聖三者』です。このイコンは、元はセルギエフ・ポサードの至聖三者聖セルギイ大修道院にあったものですが、現在は同修道院のイコノスタスには複製品が嵌め込まれており、オリジナルはトレチャコフ美術館に収められています。

言うまでも無く、素晴らしい傑作イコンです。しかし、クラムスコイの絵画のような凄みは、ガラスケースの中からは発せられていません。

正教のイコンにかかる基本的な理解(イコンはこの世の美に止まるものではなく、本来創られた神の像(イコン)としての人間性を示すもの)からすれば、ルブリョフのイコンの方が神の像をより良く書いた素晴らしいものの筈なのです。しかしこうした美術館におけるギャップは、何故出て来るのでしょうか。


美学の権威である今道友信が、著書『美について』(講談社現代新書)の中でこう述べて居ます。

「ギリシアの女神の彫像は、拝礼の対象として、場合によっては柱列の奥に多くの手下の像とともに捧げ物の山の向こう側に立っていたり、あるいは青空の下に立ちつくして、日の光を浴びていたはずである。それが今は同類の多くの神々の像とともにルーブルの博物館に立ち並んでいる。異国の室の中に囚われ、当然その女神の随員としていなければならない多くの動物や讃仰者の影もない。」(p200)

「われわれは与えられた作品との美的経験において、想像力を理性的に働かせて、その作品が、元来置かれていた場所では、いかなる背景を持ち、いかなる条件に基いて輝き出ていたのか、ということを補い考えてみなければならない。この配慮は、言わば、作品に対する愛情なのである。作品はしばしばこの愛に応えてそこに自己を開示する。」(p201 - p202)


つまり答えは簡単です。イコンは美術館に置かれる美術品としては作られていないのです


上野の国立博物館で展示されている屏風、漆器、茶器がガラスケースの中で貧弱に見えるのも同じ理由です。屏風は畳の部屋の中で仕切りに使われ、襖との組み合わせや和服で過ごす人々の立ち居振る舞いと併せて映えるものです。茶器は、畳の色合いをバックに、茶室(明暗や広さ)・茶釜・掛け軸・茶(温度・濃さ等)・香炉の香り・亭主と客との会話・庭から聞こえて来る鳥の鳴き声や水音など、五官に感じさせる総合的な組み合わせの中で役割を果たして輝くものです。

ガラスケースの中に収められて輝くようには作られていません。イコンも同様です。


イコンも、聖堂(明暗や広さ)・蝋燭の光・祭具・祭服・振り香炉の香り・詠みあげられる祈祷文・聖歌・接吻の感触など、五官に感じさせる総合的な組み合わせの中で役割を果たして輝くものなのです。そのように書かれて(画かれて)いるものなのです。家庭内に置かれるイコンにも、祈りの際には、その前に蝋燭を灯し、可能であれば香を焚きます。

なぜなら、神は視覚や頭脳だけを人間に与えられたのではないからです。正教の奉神礼(礼拝)が五官をフル動員させる総合的なものである所以です。

ですからルブリョフの大傑作も、トレチャコフ美術館のガラスケースで見劣りするのは当然なのです。そのように書かれては(画かれては)居ないのですから。そう考えて、ルブリョフによるイコンを、修道院にある暗い至聖三者大聖堂(窓が小さく、本当に暗い聖堂です)にある姿で、祈りの対象として想像してみてみますと、そこで初めて凄みが出て来るのです。

トレチャコフ美術館もさるもので、別の収蔵品である傑作イコン『ウラジーミルの生神女』は、トレチャコフ美術館内に建設された聖堂内に現在、収蔵されています。おそらくは美術館も、「イコンは聖堂内にあってこそ輝く」ことを知っていてこのような対処をしているものと思われます(こうした「美の回復」も、宗教弾圧が吹き荒れたソビエト連邦時代には考えられないことでした。ソビエト連邦は確かに終わったのです)。


皆様が美術館でのイコンの展覧会に足を運ばれる際には、是非とも、「祈りに使われる光景・音・香り」を念頭において、想像力を働かせて御覧頂きたいのです。そうでないと、幾ら専門書の注釈を見ても、理解は(信仰を無関係にしても)半分どころか1割にも届きません。

茶室でどのような茶会が行われているか、絵や映像の一つも見た事が無い外国人が、茶器や茶室を個別に単体で見たとしても、「半分はその良さが分かった」とも言えないであろうことは想像がつくでしょう。それと同じことです。

神の家であるニコライ堂をはじめとする正教会の聖堂に拝観にいらっしゃる皆様には、「博物館に行く」「遺跡に行く」「音楽ホールに行く」「キレーなものを見に行こう♪」といった気持より、「初めて会う方(神様)のお宅にある茶室(聖堂)に行く」という気持ちに近いものを持っていて頂いた方が、体験に深みが増すと思われます。


また、茶器も掛け軸も、「美」の追求単体を至上命題としては居ないのと同様、イコンも「美」の追求単体を至上命題としてはいません。イコンはあくまで祈りの生活を助けるものなのです。正教会の伝教者である私としては、究極的には聖堂にいらした皆様に、福音を伝え、永遠の生命に与り続ける生活に入って頂く事を願うものです。

茶室との大きな違いがあります。神の家の亭主は神です(まさしく聖歌に歌われる通り「主は神なり」です)。慣れない茶室に行く時と同様、聖堂に初めて行くのは緊張して当然なのです。「礼」をしてお入り下さいませ。教会にてお待ちしております。


※ 余談ですが、国立博物館には是非とも、一つで良いから、茶室を博物館内に造って頂き、そこに少しで良いから茶器と掛け軸を展示するようにして頂きたい。収蔵品の価値がより良く伝わるでしょう。季節によって組み合わせを変えれば、常設展に赴く楽しみも増えるというものです。亭主としての博物館に客としてぜひお願いしたい。

※ 本ブログは、2012年5月3日(木)に作成し、前ブログの消去に伴って消滅したものの内容を復活させたものです。私の肩書「伝教者」も当時のままにしてあります。

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