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2013年11月

2013年11月22日 (金)

「ロシア正教会は正教会の盟主」?

本を読んで居ると、「ロシア正教会がある時点以降、正教会の盟主になった」という表現を目にする事が多々あります。

○ 1448年にロシア正教会が独立を宣言
○ 1453年にコンスタンディヌーポリ(コンスタンティノープル、コンスタンティノポリ)が陥落
○ 1589年にモスクワ総主教座がロシア正教会の首座主教座として承認されたこと

以上3点のうちいずれかの時点から、「世俗権力の後ろ盾を失ったコンスタンディヌーポリ総主教に代わり、ロシア正教会が正教会の盟主になった」と書かれている事があるのですね。

他の諸点では私も大いに勉強させて頂くような碩学ですら、このような間違いを本になぜかあっさり書いておいでの事がありますので大いに面食らいます。当惑するほど簡単に反証が挙げられる間違いなのですが、どこかに典拠があるのか、なかなかこの表現「ロシア正教会=正教会の盟主」は消えません。

今回は、これが間違いであることを反証付で簡単に示します(簡単に示せる間違いであり、かつ大枠で間違いであるため、「どうでも良い細かい間違い」ではありません)。

● 反証
1.モスクワ総主教に与えられた序列は「第五位」
総主教は基本的に対等なのですが(※1)、席次といった「序列」のようなものは定められて居ます。モスクワ総主教座成立時に与えられた格付けは、コンスタンディヌーポリ、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムに次ぐ「第五位」でした。

「第五位」で「盟主」という事が有り得るでしょうか?

2.聖務会院時代(Синодальный период)には、ロシアに総主教は居ませんでしたが、その際の「盟主」は?
御存知の通り、モスクワ総主教座は1721年、ピョートル1世により廃止され(モスクワ総主教座空位は1700年から)、俗人官僚が統括する聖務会院が設置されました。これ以降1917年まで、ロシア正教会には総主教が不在であり、聖職者の中では府主教が席次上高位の主教として存在するのみとなりました。

その時、「格上」に当たるコンスタンディヌーポリ総主教をはじめとする総主教達を、ロシア正教会を集団指導する府主教、大主教、主教の集団が上回っていたのでしょうか?

3.バルカン半島の歴史、ウクライナの歴史
上の「1、2」は「名義」「格付け」の問題ですので、あるいは「実力という面でロシア正教会が一番であり盟主と言える存在だった」と仰る方がいらっしゃるかもしれません。

しかしこれも残念ながら間違いです。

バルカン半島がオスマン帝国に征服された後、(かつてブルガリアやセルビアに与えられた独立正教会位を破棄した上で)現地の正教徒達を管轄したのはコンスタンディヌーポリ総主教でした。ブルガリアの正教会は19世紀にエクザルフ教区(総主教代理教区)の地位を獲得する過程を経て再独立していきますが、その際に主要な問題となったのはあくまでギリシャ人主体のコンスタンディヌーポリ総主教庁との関係であり、ロシア正教会は殆どここに絡んで来ません(※2)。

セルビアは一時期総主教座を回復する時期もあったものの、またルーマニアは「再独立」ではなく「新規独立」であったものの、独立に際してコンスタンディヌーポリとの関係が問題になり、ロシア正教会は殆ど絡んで来なかったという点ではブルガリアと同じです。

また、問題はウクライナです。その歴史認識が大いに論争になる領域であり非常に難しい地域なのですが、17世紀半ばまで、キエフ府主教を管轄していたのはコンスタンディヌーポリ総主教庁でした。モスクワ総主教庁がウクライナにおける正教会を管轄する事が定着していくのは17世紀も末になってからです(※3)。しかもそれはロシア帝国の影響力の拡大・版図の拡大と軌を一にする以上のものでは無く、いわばロシア正教会がウクライナを管轄するようになったのは「国内管轄範囲の拡大」以上の意味合いはありませんでした。

自国の正教会に影響力が止まり、隣国の正教会にすら決定力を及ぼせない存在を、「正教会の盟主」と呼べるでしょうか?

● 結論
19世紀に極東(中国、日本)、アラスカ(しかし当初はロシア領)に対して宣教をしていったことは、確かに他の同時代の地域の正教会にはみられなかった「外へ向かう」姿勢であり、基本的にロシア正教会は「世界最大の組織」ではあり、それに見合う伝統も有していました。しかし幾つかの例外を除き、基本的にはその管轄はロシア帝国の版図に止まるものでした。

ロシア正教会には「正教の盟主」と呼ばれるのに相応しい名義も格付けも無ければ、ロシアを越える影響力もありませんでした。これが歴史的事実です(※4)。

「第三のローマ論」が引き合いに出されることもありますが、自分を大きく見せようとする願望はどこの誰にでもあります(※5)。実際にそのように呼ばれ得る実体や名義があったのかはまた別の話です。

そもそも明治時代に日本語訳されたロシア正教会による当時の教会法の教科書にすらも、「ロシア正教会は正教の盟主」とは書かれて居ません。

なお、日本正教会の母教会はロシア正教会であり、今も自治正教会たる日本正教会を庇護しているのはロシア正教会です。しかし「子教会」を持つ「母教会」は他にも複数あり、子教会があることはロシアだけに限定されるものではありません(むしろコンスタンディヌーポリ総主教庁の方が例が多いのです)。

基本的理解としては「総主教達・独立正教会は対等。コンスタンディヌーポリ総主教がその中では第一人者として挙げられるが、基本的に対等という原則は崩れない。」が正解です。

参考文献
○ 三浦清美『ロシアの源流』講談社選書メチエ
○ History of the Bulgarian Orthodox Church

※1 … コンスタンディヌーポリ総主教に、他の総主教に無い特権をどこまで認めるかは教会法の解釈論争があり、主にギリシャ系の学者とロシア系の学者で見解は割れて居ます。他方、少なくとも「見解が分かれ得る」ことは、コンスタンディヌーポリ総主教の権限が「絶対」的なものでは無いことの例証でもあります。

※2 … なぜか同じ本に「ロシア正教会は対外的に関心を殆ど持たず、ロシア帝国内の正教会の維持、せいぜいが帝国内の異教徒の改宗に関心が止まった」といった記述と、「ロシア正教会は正教会の盟主」といった記述が同居している事があります。「対外関係に関心を払わない盟主」って、矛盾した表現・認識だと思うのですが…(「外に関心は無く影響力も行使せず(出来ず・無く)名義も格付けもトップでは無かったが、しかし盟主」?)。

※3 … つまりウクライナを管轄するようになってからあまり時間を置かず、モスクワ総主教庁はロシア皇帝によって廃止された事になります。随分弱くはかない「盟主」です。

※4 … 私個人にはロシア正教会と浅からぬ関係があり、ロシア正教会が「盟主」と勘違いされる程に「過大評価」される事は個人的には面白いとは思いますが、だからといって単純明白な事実を否定することはできません。なお、「盟主」と言える程ではないにせよ、ロシア正教会の影響力が対外的に拡大したと言えるのは、皮肉な事に、ロシア帝国崩壊により、ロシア国外に亡命ロシア人によるロシア系正教徒のコミュニティがまとまって形成されて以降です。

※5 … ただ、「第三のローマ」論を最初に言い出したとされるのはプスコフの修道士フィロフェイですが、プスコフはモスクワ大公国によって征服された側です。フィロフェイおよび当時広く流布していた終末思想との結び付きも指摘されますが、いずれにしろその発祥は、単に「自画自賛」として使われた言葉ではありませんでした。

2013年11月 4日 (月)

「外部の人」に必要な「宗教の知識」

● 「正教について一応知っておきたい」という方に私がお話すること

「信者になるつもりはありませんが、宗教については知っておきたい」という一定の需要が世の中にはあります。

かく言う私も、無論仏教徒になるつもりはありませんが、仏教の一応の概略は知っておきたいと考え、僅かながら何冊か読んでもおります。

私含む聖職者、信者は、「信じてもらう」事が一つの喜びであり目指す所である以上、「信者になるつもりは無い」と前提として宣言されてしまいますと、正直寂しいというのが本音です。

しかしそのような需要がありますのが現実です。ニコライ堂の拝観・見学にいらっしゃる方々には、出来る限り「解り易く」お話するよう努めております。団体さんの中にはリピーターとなられる方々もいらっしゃいます。最近では他教会(プロテスタント)の神学生さん方の見学も増えていらっしゃいますが、仏教のお坊さん、あるいは修行中の方々による見学も若干ありますね。

さて、そういう方に、「知識としての正教」をお話する際、「私達(正教信者)がどのように信じているのか」というお話のみを致します。「客観的(?)に見て、正教会の性質とはこういうもので、西方教会(ローマカトリック、プロテスタント)との違いはかくかくしかじか、仏教・神道との違いは云々」という話は殆ど致しません。

第一の理由として、「客観的」「比較」というのは大変難しいという事が挙げられます。いずれについてもよく知らなければならない上に、そもそも純粋に「第三者的に客観的」という姿勢が有り得るのかどうか?

宗教のような領域で「あらゆる偏見から自由」というのは有り得ません。しかも、「正教は客観的に見て正しいから信じる」ものではないのです。「客観的に正しい」のなら「正しい」事を「知る」だけで済むのであり、「信じる」必要はありません。ですから皆様にも「客観的に見て正教は云々」とはお話しません。

しかしもっと大事な理由があります。

時間の制約(大体30分位で説明申し上げます)の中で、「客観的な分析」「比較」は、「99%、必要無い、役に立たない知識」だからです。

● 私が神道・仏教について「知りたい」「知るべき」優先順位

正教、キリスト教の話ですと分りにくいと思う方も多いでしょうから、私が神道・仏教について「知りたい」と思う事を例に出します。

私が「知りたい」と思い、私に「必要」な、神道・仏教についての知識とは、「今の日本で神職や氏子がどう考え、どのような行動様式に反映させているか」「今の日本で住職や檀家信徒がどう考え、どのような行動様式に反映させているか」です。

「記紀神話の真実」「ブッダの覚りとは実際にはどのようなものだったのか」といった事には、私は全く関心がありません。なぜならそれは「信者が持つ関心」百歩譲っても「研究者が一般向けでは無い論文レベルで持つべき関心」でありこそすれ、「外部の人が持つ関心」では無いか、関心があったとしても、人と人との関わりの際に参考になるものとしての優先順位は極めて低いからです。

お葬式で神職や住職がどのような話をしているかは、「今の神道の教え」「今の仏教の教え」を知ることが、外部に居る私には最も直接的に役に立ちます。そして神社やお寺とほぼ全く関係を持たずに育ってきた私が、神道や仏教に属する人達相手にお話する際(※1)に何に気を付けて話さなければならないかは、それで足りるのです。

● 良くて「学者独自の『説』止まり」、悪ければ「お笑い珍説」を読む事に、何の意味が?

ところが逆の立場で、「信者になるつもりは無い」人向けに書かれる「キリスト教入門」関連の書籍は、「キリスト教の本来の教えはこうだ」「イエス・キリストは本当はこう教えていた」というものが多く、またそれらが「教会が言う教えよりも解り易い♪」として売れますね。

不思議です。「本来の教え」「イエス・キリストは本当はどう教えていたか」という説(実は断言される口調のものが多いのですが、実際は「説」止まり、「少数説」どころか「珍説」でしかないものを「断言」している本も少なくありません)を信者以外の方が知って、何の役に立つのでしょう?

もちろん「役に立つ」知識だけが価値あるわけでは全くありませんが、この手の「キリスト教入門書」は、「世界が解るようになる」「芸術作品の理解に欠かせない」とか、「役に立つ」を謳っているものが殆どで、買う人も「役に立たせる」事を目的に買うことが多いようです。だとしたら「役に立つか立たないか」は、この場合にはとても大事なポイントの筈です。

実際には、良くて「説」止まり、悪ければ「珍説」が書かれている本を読んでも、「芸術家による作品制作意図」が解る事は全く無いのですが…。

勤勉な学者による気鋭の新説ならまだ面白みもあるかもしれませんが(しかし一般人にどこまで意義があるかはやはり疑問)、不勉強な「学者」による、知識不足から来る単なる珍説が書かれている本(残念ながら結構あるのです)が「文化の理解の役に立つ」事は決してありませんし、「面白さ」すらもあるとは思えません。

まさか一々キリスト教徒に論戦を仕掛けて「お前の信じている内容は実は間違っている!」と論破するためでもありますまいし…※2(日本人にはそういうタイプの人は僅かですよね)。

● キリスト教についても、まずは「教会(正教、ローマカトリック、聖公会、プロテスタント諸派)がどのように教えているか」が直接的に役に立つのです

「キリスト教圏で作られた絵画、音楽、映画、小説などの理解を深めたい」のなら、該当作品の地域で優勢な教会、作家の背景となっている教会によって書かれた入門書を読んだ方が、「客観」「第三者」を標榜する独自珍説を読むより、よほど手っ取り早いです※3。

どうしても時間が無い等の理由で、「一冊にまとまった本で、全教会(正教、ローマカトリック、聖公会、プロテスタント諸派を網羅した入門書は無いか」とお考えの方には、なんでもわかるキリスト教大事典 (朝日文庫) をお奨めします。

「キリスト教が社会に与えた影響云々」については、勉強不足な社会学者によるものを読むよりも、山川出版による高校世界史の教科書を読んだ方が遥かによく纏まっています。専門家の観点から見れば宗教関連の記述についても端折り過ぎ、あるいは間違い時代遅れな見方、と言える部分も少ないとはしませんが、今の日本では最もマシな部類に入ります。

とにかく「第三者として『真の教え』を解説します」という類の本は、大体、勉強不足で間違いだらけか、勉強面では優秀な学者さんによる労作であったとしても、芸術鑑賞などの理解を深めたいとお考えの一般の皆さんには役に立たない代物だとお考えになって間違いありません。

※1…正教信者でない方が大勢集まるお葬式での説教の際などに、要求される教養です。

※2…大体この手の浅知恵による「論破」は無駄です。外部の人が考え付くような矛盾や疑問は、大概は中の人は既に抱いて、しかも解決済みもしくは気にしなくなっている事が多いので。

※3…逆に該当地域や作家の所属教会から外れたものを読みますと、あまり役に立たないどころか誤解の元になったりします…。例えばロシアのドストエフスキーをより理解しようとして、ローマカトリックやプロテスタントによる「キリスト教入門書」を読みますと、「ドストエフスキーのキリスト教理解は彼独自のものである」という頓珍漢な結論になってしまったりします…。正教の入門書を見れば、ドストエフスキーの小説の背景にあるのは標準的な正教会だという事が分かり、決して「ドストエフスキー独自のキリスト教」という事にはなりません。むしろそういう頓珍漢な解釈の方が「学者独自の解釈」になってしまっています。

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