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2013年11月 4日 (月)

「外部の人」に必要な「宗教の知識」

● 「正教について一応知っておきたい」という方に私がお話すること

「信者になるつもりはありませんが、宗教については知っておきたい」という一定の需要が世の中にはあります。

かく言う私も、無論仏教徒になるつもりはありませんが、仏教の一応の概略は知っておきたいと考え、僅かながら何冊か読んでもおります。

私含む聖職者、信者は、「信じてもらう」事が一つの喜びであり目指す所である以上、「信者になるつもりは無い」と前提として宣言されてしまいますと、正直寂しいというのが本音です。

しかしそのような需要がありますのが現実です。ニコライ堂の拝観・見学にいらっしゃる方々には、出来る限り「解り易く」お話するよう努めております。団体さんの中にはリピーターとなられる方々もいらっしゃいます。最近では他教会(プロテスタント)の神学生さん方の見学も増えていらっしゃいますが、仏教のお坊さん、あるいは修行中の方々による見学も若干ありますね。

さて、そういう方に、「知識としての正教」をお話する際、「私達(正教信者)がどのように信じているのか」というお話のみを致します。「客観的(?)に見て、正教会の性質とはこういうもので、西方教会(ローマカトリック、プロテスタント)との違いはかくかくしかじか、仏教・神道との違いは云々」という話は殆ど致しません。

第一の理由として、「客観的」「比較」というのは大変難しいという事が挙げられます。いずれについてもよく知らなければならない上に、そもそも純粋に「第三者的に客観的」という姿勢が有り得るのかどうか?

宗教のような領域で「あらゆる偏見から自由」というのは有り得ません。しかも、「正教は客観的に見て正しいから信じる」ものではないのです。「客観的に正しい」のなら「正しい」事を「知る」だけで済むのであり、「信じる」必要はありません。ですから皆様にも「客観的に見て正教は云々」とはお話しません。

しかしもっと大事な理由があります。

時間の制約(大体30分位で説明申し上げます)の中で、「客観的な分析」「比較」は、「99%、必要無い、役に立たない知識」だからです。

● 私が神道・仏教について「知りたい」「知るべき」優先順位

正教、キリスト教の話ですと分りにくいと思う方も多いでしょうから、私が神道・仏教について「知りたい」と思う事を例に出します。

私が「知りたい」と思い、私に「必要」な、神道・仏教についての知識とは、「今の日本で神職や氏子がどう考え、どのような行動様式に反映させているか」「今の日本で住職や檀家信徒がどう考え、どのような行動様式に反映させているか」です。

「記紀神話の真実」「ブッダの覚りとは実際にはどのようなものだったのか」といった事には、私は全く関心がありません。なぜならそれは「信者が持つ関心」百歩譲っても「研究者が一般向けでは無い論文レベルで持つべき関心」でありこそすれ、「外部の人が持つ関心」では無いか、関心があったとしても、人と人との関わりの際に参考になるものとしての優先順位は極めて低いからです。

お葬式で神職や住職がどのような話をしているかは、「今の神道の教え」「今の仏教の教え」を知ることが、外部に居る私には最も直接的に役に立ちます。そして神社やお寺とほぼ全く関係を持たずに育ってきた私が、神道や仏教に属する人達相手にお話する際(※1)に何に気を付けて話さなければならないかは、それで足りるのです。

● 良くて「学者独自の『説』止まり」、悪ければ「お笑い珍説」を読む事に、何の意味が?

ところが逆の立場で、「信者になるつもりは無い」人向けに書かれる「キリスト教入門」関連の書籍は、「キリスト教の本来の教えはこうだ」「イエス・キリストは本当はこう教えていた」というものが多く、またそれらが「教会が言う教えよりも解り易い♪」として売れますね。

不思議です。「本来の教え」「イエス・キリストは本当はどう教えていたか」という説(実は断言される口調のものが多いのですが、実際は「説」止まり、「少数説」どころか「珍説」でしかないものを「断言」している本も少なくありません)を信者以外の方が知って、何の役に立つのでしょう?

もちろん「役に立つ」知識だけが価値あるわけでは全くありませんが、この手の「キリスト教入門書」は、「世界が解るようになる」「芸術作品の理解に欠かせない」とか、「役に立つ」を謳っているものが殆どで、買う人も「役に立たせる」事を目的に買うことが多いようです。だとしたら「役に立つか立たないか」は、この場合にはとても大事なポイントの筈です。

実際には、良くて「説」止まり、悪ければ「珍説」が書かれている本を読んでも、「芸術家による作品制作意図」が解る事は全く無いのですが…。

勤勉な学者による気鋭の新説ならまだ面白みもあるかもしれませんが(しかし一般人にどこまで意義があるかはやはり疑問)、不勉強な「学者」による、知識不足から来る単なる珍説が書かれている本(残念ながら結構あるのです)が「文化の理解の役に立つ」事は決してありませんし、「面白さ」すらもあるとは思えません。

まさか一々キリスト教徒に論戦を仕掛けて「お前の信じている内容は実は間違っている!」と論破するためでもありますまいし…※2(日本人にはそういうタイプの人は僅かですよね)。

● キリスト教についても、まずは「教会(正教、ローマカトリック、聖公会、プロテスタント諸派)がどのように教えているか」が直接的に役に立つのです

「キリスト教圏で作られた絵画、音楽、映画、小説などの理解を深めたい」のなら、該当作品の地域で優勢な教会、作家の背景となっている教会によって書かれた入門書を読んだ方が、「客観」「第三者」を標榜する独自珍説を読むより、よほど手っ取り早いです※3。

どうしても時間が無い等の理由で、「一冊にまとまった本で、全教会(正教、ローマカトリック、聖公会、プロテスタント諸派を網羅した入門書は無いか」とお考えの方には、なんでもわかるキリスト教大事典 (朝日文庫) をお奨めします。

「キリスト教が社会に与えた影響云々」については、勉強不足な社会学者によるものを読むよりも、山川出版による高校世界史の教科書を読んだ方が遥かによく纏まっています。専門家の観点から見れば宗教関連の記述についても端折り過ぎ、あるいは間違い時代遅れな見方、と言える部分も少ないとはしませんが、今の日本では最もマシな部類に入ります。

とにかく「第三者として『真の教え』を解説します」という類の本は、大体、勉強不足で間違いだらけか、勉強面では優秀な学者さんによる労作であったとしても、芸術鑑賞などの理解を深めたいとお考えの一般の皆さんには役に立たない代物だとお考えになって間違いありません。

※1…正教信者でない方が大勢集まるお葬式での説教の際などに、要求される教養です。

※2…大体この手の浅知恵による「論破」は無駄です。外部の人が考え付くような矛盾や疑問は、大概は中の人は既に抱いて、しかも解決済みもしくは気にしなくなっている事が多いので。

※3…逆に該当地域や作家の所属教会から外れたものを読みますと、あまり役に立たないどころか誤解の元になったりします…。例えばロシアのドストエフスキーをより理解しようとして、ローマカトリックやプロテスタントによる「キリスト教入門書」を読みますと、「ドストエフスキーのキリスト教理解は彼独自のものである」という頓珍漢な結論になってしまったりします…。正教の入門書を見れば、ドストエフスキーの小説の背景にあるのは標準的な正教会だという事が分かり、決して「ドストエフスキー独自のキリスト教」という事にはなりません。むしろそういう頓珍漢な解釈の方が「学者独自の解釈」になってしまっています。

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