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2013年12月

2013年12月10日 (火)

降誕祭(クリスマス)の意味(一人、イルミネーション、夜勤などの話題も)

今年も降誕祭・クリスマスの季節がやって参りました。

人生で「幸福だ」と思える時はとても少ないものです。ですから降誕祭に恋人や家族と思い出を作っている人に、殊更に水を差すつもりは有りません事を前提としてお断り申し上げます。

 リア充(男女のカップル)向けのイベントというもったいない理解

降誕祭が「リア充(男女のカップル)向け」とのイメージで語られる事について、「信者は腹を立てるのではないか」と言われる事があるのですが、特に腹が立つ、という事はありません。

ただ、「クリスマス撲滅運動」というものが反発として世間の一部で起きてしまっている事と併せて、「怒る」というよりも、「大変残念」な気持ちが致します。本来の喜ばしい意味が欠片も伝わっていないからです。

また、少子高齢化が進み、かつカップル率がどんどん下がっている今、「カップル対象の祭」なのであれば、その対象となる人は年々減っている事になります。

主の降誕祭(クリスマス)が、どんどん少なくなっている限られた幸せな人を主な対象とする祭りと思われる事は、大変残念で、もったいない話です。

 降誕と、イルミネーションの意味

主の降誕祭(クリスマス)は、真の神であり真の人でいらっしゃる、主イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)が、私たちと同様に女から生まれ、この世に来られた事を記憶する祭りです(※1)。待ち望んでいた救い主がこの世にお生まれになった事を喜びます。

真の神であり真の人でいらっしゃる主イイススがこの世にお生まれになった事で、この世が輝かしいものとなりました。ですから教会でもイルミネーションを飾り付けてお祝いします

実にイルミネーションは、日本で行われているクリスマスの習慣の中でも、教会的な意味が失われていない、数少ない習慣の一つです。

※1…子供向けに「分り易く」、「イエス様の誕生日だよ」と説明する事がありますが、本来は教会においても、教会外においても、「誕生日」とは捉えられていません。古代には5月にお生まれになったのではないかと推測された事もありました。主の降誕祭は、あくまで「主イイスス(イエス)の降誕を【記憶する日】」であり、「誕生日」ではありません。

 「心の貧しい者はさいわいなり」(マタイ53節)

注目すべきは、最初に幼子・主イイスス(イエス)を礼拝しに来たのは、羊飼いであったという事です。羊飼いは金持ちではありませんでした(※2、※3)。次に礼拝に来たのは、異邦人の博士たちでした。

主イイススは洞穴にお生まれになりました(※4)。宿屋は人々で一杯だったからです。

救世主を待ち望んでいる筈のユダヤ人達は、羊飼い達を除いて、幼子イイススを礼拝しにやって来ませんでした。礼拝にやって来なかったばかりか、宿一つ、提供することもありませんでした。

これは当時のユダヤ人達だけに限ったお話ではなく、現代の私たちにも向けられたお話です。しばしば(信者、非信者問わず)、私たちの心もこの世の事で一杯です。主イイスス・ハリストスをお迎えする余地がありません。 

主の降誕祭(クリスマス)は、私たちの貧しさ(心の貧しさ)を自覚する謙遜さと、主イイススをお迎えする心の余地が私たちに必要な事を教えてもいるのです

それは主の降誕祭に限らず私たちに求められる心構えですが、主の降誕祭は特にこの事を想い起す機会です。

※2…そしてもちろん、羊飼いが主イイススを拝みに来た時、異性同伴ではありませんでした。

※3…聖書において「貧しい」「貧しさ」と言った場合、「この世の富」を意味するのではなく、「心・たましいの貧しさ(を自覚する謙遜さ)」と結び付けて解釈されます。自らの「心・たましいの貧しさ」を自覚する謙遜な人は、神に喜ばれるさいわいな人です。この世の富という面での貧しさは、心の貧しさの自覚という謙遜に結び付くきっかけでもあります

※4…正教会の伝承では「馬小屋」ではなく「洞穴」となっています(実は聖書には「馬小屋」とは書かれていません)。羊飼い達が飼料を置いて利用していたのは、荒野の洞穴であり、ここに主イイススがお生まれになったと伝えています。羊飼いが拝みに来た時は、主イイススは生まれたてで洞穴においでになり(ルカによる福音書2章8節~20節)、異邦人の博士たちが拝みに来た時には家に移って居ました(マタイによる福音書2章1節~12節)。

 「家族のための祭り」なのでしょうか

降誕祭はカップルのためではなく、家族で祝う祭り、と説明される事があります。確かに家族でお祝いする事が出来る人は幸いですし、神様もそれを喜ばれます。

しかしながら、主イイススを礼拝しに来た人々は「家族」ではありませんでした。家族とともに過ごす事すらできなかった貧しい羊飼い達が夜中、野宿して羊の番をしている時に(夜勤中)、天使たちからのお告げを受けて、幼子を拝みに向かいました(※5)。

先程、「イルミネーションは教会の教え(この世が救世主の降誕によって輝かしいものとなったこと)に一致します」と説明しました。

独身の方が、また夜勤中の方が、街を歩いていてイルミネーションを一人で見る時、「世間ではカップルがこれをロマンチックに観ているのに、家族が一緒に楽しんでいるのに、自分は…」とは、どうか思わないで頂きたいと思います。

主イイススを礼拝したのは、カップルでも家族でもなく、夜勤中の羊飼い達であり、遠くからやって来た異国人達でした。

主イイススを待ち望み、心に主をお迎えする余地があることが大事です。

一人でも、恋人・友人・家族と一緒であっても、いずれであっても「神であり人である主イイススを、心に余裕を用意してお迎えする」事が、降誕祭の本当の「意味」になります。

※5…聖使徒シモンとアンデレも、海に網を打っている時(労働中)に主イイスス(イエス)に声をかけられ、主イイススに従いました(マタイによる福音書4章18節~20節)。羊飼いも聖使徒達も、労働中に神に呼ばれました。これは労働が、神に喜ばれる、神に向かう機会であることを示しています。修道院で祈りと労働が大事にされて来た伝統に反映されています。「キリスト教では、労働は神による罰」というのは通俗的によく言われますが、ごく単純な誤りです(ただしもちろん、過労も、労働の強要も間違いです)。参考トゥギャッターまとめ→キリスト教は労働を否定している?

 降誕祭を「静かに過ごす」事の意味

降誕祭の夜(クリスマス・イブ)は、一人の人も交際中の男女も家族も静かに過ごすよう古くから教会で教えられています。主イイススをお迎えする余地を心に静かにつくるためでもあり、また、私たちが神様をお迎えする余地をしばしば心に用意していないことを反省する機会でもあるからです。

街のイルミネーションを御覧になった時、一人の方も、カップルも、御友人で集まっている人達も、御家族も、どなたがこの世にお生まれになったことでこの世が輝かしいものとなったのかを思い出して頂きたいと願っております

そして、主イイススを礼拝する輪に、一人の方・恋人同士・友人同士・家族、どなた様も加わって頂きたいと願っております

羊飼い達だけでなく、異邦人達も礼拝に来ました。

教会はどこかの民族・人種のためのものではなく、全ての人を救いの道に招いています。

 日付

ニコライ堂(正教会の教会です)での奉神礼(礼拝)日程

○ 122418時半~20時半頃(新暦降誕祭 晩祷)

122510時~12時頃(新暦降誕祭 聖体礼儀)

1618時~20時頃(旧暦降誕祭 晩祷)

1710時~11時半頃(旧暦降誕祭 聖体礼儀)

* 終了時刻は毎年変動し、もっと伸びるなど、上記と異なる場合があります。予め御了承下さい。

* 信者ではない方も御参祷頂けます。聖堂にいらした際には、入口におります名札を付けた係りの者の指示に従って下さい。また、聖堂入口での蝋燭献金への御協力をお願いします。

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