崇拝と崇敬を巡る書き込みについてお詫びと訂正
以下、2015年3月17日にトゥギャッターにて私が作成しましたまとめ
「宗教学たん」のデタラメと、盗用(@東洋経済←プレタポルテ・夜間飛行)
に対し、
(1)、(2)、(3)、(4)、(5)
ツイッターで飛鳥井さん(@S_Asky)から以上のような御指摘がありました。
ツイッターで御返信しますのは大量のツイートになると思われましたことと、図を入れたかったため、本ブログにて御返信申し上げます。
目次
第三者向け前提1「中立性」
第三者向け前提2「崇拝と崇敬」
私の発言の問題点三つにつきお詫びと訂正
釈明
第三者向け前提1「中立性」
第三者向けに前提をここで申し上げます。
「聖人崇拝」という用語を無頓着に「宗教学たん」が使っていることに私は突っ込みました。
ツイッターでは文字数が限られているので詳しく申し上げられなかったのですが、実はある文脈においては「聖人崇拝」という用語が使われ得ます。
◆ 正教、非カルケドン派、ローマカトリックにおいて、「聖人崇拝」が肯定された事は無い。
◆正教、非カルケドン派、ローマカトリックでは、神に対する崇拝(λατρεία)と、聖像に対して行われる敬拝(τιμητική προσκύνησις)といった相対的な崇敬(προσκύνησις σχετική)を区別してきた。
◆ プロテスタントであるカルヴァンとその同調者はローマカトリックに対し、「ローマカトリックでは聖人崇拝が行われている」と非難した。言いかえれば「崇拝と崇敬の区別を認めなかった」。
◆ 今でも「ローマカトリックでは聖人崇拝が行われている」と批判するプロテスタント教会・信者は少なからず存在する(一方で、そのような批判を今ではしない教会・信者も存在する)。
つまり「この問題において、カルヴァン、もしくはその一派と同様の視点に立つ」とした上であれば、「『聖人崇拝』と述べる事は可能」です。
ただ「宗教学たん」は、カルヴァン主義者なのでしょうか?
仮にそうなのだとしたら自らの立場を明らかにするべきです(巫女という設定でいらっしゃいましたから、どうもそうではないと思われます)。
カルヴァン主義者ではないのだとしたら、立場による見解の差に無頓着なことは、「宗教学」をやる者として如何なものなのでしょうか。
第三者向け前提2「崇拝と崇敬」
「崇拝」と「崇敬」を区別する教会(正教会、ローマカトリック教会等)では、
◆ 崇拝 → 神にのみ向けるもの
◆ 崇敬 → 十字架、聖像、聖人、人などに向けるもの
と区別しています。
正教会での術語については、より細かい図を以下に作成しました。
図の通り、伏拝(ふくはい、προσκύνησις、現希:プロスキニシス、古希:プロスキュネーシス、敬拝とも)は神にも、聖なる物にも、人にも向けられます。
箇条書きにすると以下のようになります。
◆ 奉事(礼拝、λατρεία、現希:ラトリア、古希:ラトレイア)は神にのみ向けられます。
◆ 伏拝(ふくはい、叩拝:こうはい、προσκύνησις、現希:プロスキニシス、古希:プロスキュネーシス)は神、十字架、イコン、聖人の不朽体等の聖なるもの、人とに行われますが、イコンへの伏拝(敬拝)は画かれた方に帰すものです。
◆ 奉事的な伏拝は、ただ至聖三者(三位一体の神)にのみ向けられなければなりません。また伏拝を異教の神・偶像等に向けることは禁じられています。
地に文字通り伏して拝む伏拝という形式をとるかどうかは東西教会で違いますが(正教会では伏拝が現代でも頻繁に行われるのに対し、西方教会では殆ど行われなくなりました)、いずれにせよ、「礼をする」という外形的形式においては、「神に対する崇拝」と「その他のものに対する崇敬」との間に共通するものがあります。
こうした事情も、
「正教会、ないしローマカトリック教会は、やはり聖人や聖像を崇拝している。神にだけ向けるべき行為をそれらに向けているではないか。」
「教会上層部はそのように指導しているとしても、混同している信者が居る。」
といった批判を、カルヴァンおよびその同調者・後継者がする背景の一つとなっています。
ただ、正教会としては、旧約聖書においてもπροσκύνησις(伏拝・敬拝)が人に対して行われている場面が複数あること(例:創世記 / 23章 7節、創世記 / 33章 3節、ルツ記 / 2章 10節、サムエル記上 / 24章 8節、列王紀上 / 1章 23節、歴代志上 / 29章 20節)等をもって、こうした「崇拝も崇敬も一緒であり、神以外のものに対する伏拝・敬拝は禁じられている」に反論しています。
その議論の詳細は、ここではこれ以上立ち入りません。
重要なのは、
「崇拝と崇敬は違う」(正教会・ローマカトリック等)
「崇拝と崇敬は一緒だ」(カルヴァン主義者および同様の見解をとる者)
とする両見解があるのであり、後者が「客観的」で「中立的」とする根拠は無い、ということです。
「違いに拘るのは信者だけだろう(笑)」と思われる方は、結果的に、カルヴァン主義者と同様の見解をとっているわけです。繰り返しますがそれは決して「中立的」な見解では有り得ません。
私の発言の問題点三つにつきお詫びと訂正
「宗教学たん」が無意識に「少なくないプロテスタント、特にカルヴァンと同様の見解をとっている」事は、以上指摘の通りです。
ただ、私は
https://twitter.com/suzutuki1980/status/476414743184293888
にて、
>「崇拝と崇敬は同じ」と言うのはプロテスタント由来の偏向でもあり、到底「中立」などとは申せません。
と2014年6月11日に述べました。
この「プロテスタント由来の偏向」について撤回し、訂正、お詫び申し上げます。
自分で色々考えました結果、私の発言における問題は三点あります。
第一点目の問題は、「プロテスタント」を十把一絡げにしたことです。
プロテスタントにも色々あり、例えば「聖像はもちろん、宗教画のようなものも一切使うことを禁じる」とする人から、「マリア像を家に置いてあります。崇拝とか崇敬とかしませんが、ぞんざいには扱いません。」と言うような人まで、様々な人が居ます。
実際、プロテスタントであった私の生まれ育った家には、幾つか宗教画がありました。残念ながらうろ覚えなのですが、聖母子の絵もあったように記憶しています。自分の家もそうだったのに、十把一絡げにするとは全く迂闊でした。
現代のプロテスタントには、カルヴァンと同様に「聖人崇敬と言われているものは、神にのみ向けるべき崇拝を聖人に向けている、間違った『聖人崇拝』だ」と言う人も居れば、「崇拝と崇敬を区別する見解について、ある程度尊重する」と言う人まで様々に居ます。
プロテスタント全体が「崇拝も崇敬も同じだろう(笑)」と「杜撰に主張」しているかのように印象付けかねない私の言葉は、正当なものではありませんでした。
第二点目の問題は、「崇拝も崇敬もどうせ同じなんだろう(笑)」といった「雑な物言い」と、カルヴァンの主張を一緒くたにしたことです。
もちろん、正教会は、カルヴァンのような見解を否定し批判します。
しかしながら、「どうせ同じなんだろう」と雑な扱いと、「そもそも聖人という概念の捉え方が根本的に異なるので、聖人崇敬は『崇拝』で無いにしても認められるものではない」といった考察が組み上げられた結果を、同列に扱うのは、「舐めている」と思われても仕方のないところでした。
第三点目の問題は、「由来」という因果関係を示す言葉を簡単に使ったことです。
「カルヴァンと同様の結論となっている」からといって、「プロテスタント由来」と断定するべきではありませんでした。「プロテスタントの主張が、『崇拝も崇敬も一緒だろう(笑)』という雑な言い分の源泉になった」経緯を立証せずに、このような発言をするべきではありませんでした。
以上三点、発言の問題点を挙げ、以下のように発言を訂正します。
【訂正前】「崇拝と崇敬は同じ」と言うのはプロテスタント由来の偏向でもあり、到底「中立」などとは申せません。
↓
【訂正後】「崇拝と崇敬は同じ」と言うのはカルヴァンらと同様の見解であり、到底「中立」などとは申せません。
不正確かつ偏見を煽る書き込みにつき、お詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。
釈明
普段から私は「プロテスタントを舐めてかかる」事は全くしておりません。
プロテスタントを教えの面から正教との違いについて批判的に述べる、あるいは批判する事があっても、それは「舐めてかかっている」からではなく、「批判するに足る相手」であると考えての事です。
また、伝道会等でも、「プロテスタントとの違い」について言う時には、必ず「プロテスタントは様々なものの総称です。ですからここで申しますあくまで『概要』からは外れる、少なく無い例外が沢山あるということは大前提にしておいてください」と念を押すようにしております。
それだけに、今回は一緒くたに雑に述べてしまいました事は痛恨の極みでして、恥じ入るばかりです。改めて飛鳥井さんおよび読者で不快に思われましたプロテスタントの方にお詫び申し上げます。
以上、お詫びと釈明とさせて頂きます。
■ 「第三者向け前提」で使いました参考文献 ■
長司祭イオアン長屋房夫神父訳「正教徒と福音派の対話」
ジョン・メイエンドルフ著、小高毅訳「東方キリスト教思想におけるキリスト」教文館