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2013年6月11日 (火)

間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき

関連日記:「ふしぎなキリスト教」は要旨・大枠からして滅茶苦茶です…

橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教』という本が売れに売れています。20万部を突破し、新書大賞を獲りました。多くの「キリスト教のことが解った」という好意的レビューが著名人・一般人問わずなされています。

私はこれをツイッターや、自分の立ち上げたウィキで大いに批判しております。王様は裸です。

本日の記事では、『ふしぎなキリスト教』の内容そのものも酷いのですが、今回は責任ある立場のある人間がこれを評価することについて、簡潔に批判とその理由を示します。

なお、その前に、もっと良いキリスト教入門書を挙げているウィキページ(これも私が管理人ですが)を先に紹介しておきます。「批判ばかりで代案が無いのか、もっと良い本を書け」と『ふしぎなキリスト教』擁護派から言われる事が多いのですが、代案どころか、既にもっと良い本が沢山あるというのが批判の大前提なのです。

「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書紹介

探しも知りもしないで「より良い本が無い」と言うのは失礼極まりないですし、探した上で『ふしぎなキリスト教』が良い、というのであれば、それはもう間違いだらけだろうが何だろうが、もともと、このようにキリスト教をぞんざいに扱って「西欧社会・近代社会を解った気になる」本が欲しかったというだけのことではないのでしょうか。違うとお感じの方は、是非上に挙げました他の良質な入門書(文庫本もあります)を手にとって下さい。

まず、「売れている」ことが即、「良いもの」ではないという当たり前のことを前提として確認しておきましょう。この「ふしぎなキリスト教」を肯定的に語る人が、「多くの人に受け入れられた」ことそのものを価値として語るケースが非常に多いからです。

たとえば好き嫌いは大きく分かれるでしょう、小林よしのりの『戦争論』を、「売れているから良いものだ」と評価することは、否定派は勿論、肯定派でも好意的評価の根拠として「売れているから良い本だ」を真っ先に挙げることはしません。「売れる」ことが即「良い」の理由にはならないことは、普通の場面では皆、解っている筈なのです。たとえば欠陥住宅が安さゆえに売れに売れたとしても、欠陥住宅が「良い住宅」ということにはなりません。

ところが「ふしぎなキリスト教」に限っては、肯定派の多くが「売れていること」を以て「良い」の根拠にすることが罷り通っている。

※それなら聖書の方が遥かに伝統的ベストセラーです。「売れているものが良い」のなら、聖書そのものを勧めては如何かと思うのですが。

別に「ふしぎなキリスト教」に頼らずとも、他に批判者側が挙げる良質な入門書は沢山あります。なかでも批判者のほぼ全てが推している八木谷涼子氏の入門書(『なんでもわかるキリスト教大事典』 (朝日文庫)  八木谷涼子 ISBN 9784022617217)は、刷を何度も重ね、再版までされました。「(出鱈目だらけの)『ふしぎなキリスト教』を上回る本が無い」と言われますが、既に書かれています。「ふしぎなキリスト教」を「これ以上の本が今のところ無い」といった書評を書いた方は、もっと本を探されることをお勧めします。他の誠実な著者達に大変失礼なことを言っていること、そして他の良質な本が広まるきっかけを潰す働きをしてしまっていることへの自覚を持って頂きたい。

※「批判するのならこれを上回る本を書けばいい」と著者の一人大澤真幸氏は述べていますが、こうした出鱈目本を書いたことに何の羞恥も無く、「これを上回る本は無い」と思いそのように発言する傲慢さ・厚顔さに全く驚くほかありません。

先ほど、欠陥住宅の例を出しましたが、ふつう、商品に欠陥が膨大にあれば、総合的にも悪いものと看做されます。幾らデザイン・価格・機能が優れているように見えても、構造計算に欠陥があって強度が不足していれば、住宅としての最低限の用を満たさないと判断され、損害賠償の対象となり、一切が評価されません。

本も同じです。

大体、誤植が3頁に1個の割合であるような本だったら、返本・返金を求めるでしょう。それが「誤植」どころか、『ふしぎなキリスト教』は3頁に1個の割合で「明らかな誤り」があるのです。これは「重箱の隅」ではありません。重箱の3分の1の食べ物に腐った部分があったら、それを指摘するのは「隅をつつく」とは言いません。

※どのような具体的な誤りがあるかは、「間違いだらけのふしぎなキリスト教」をご覧下さい。かなりの割合が高校世界史レベルの間違いです。

「大枠の議論が合って居ればいい」と仰る方もいらっしゃいますが、その「大枠の議論」を補強するために使われている論拠に、3頁に1個、誤りがあるのであれば、「大枠の議論も怪しい」と思うのが普通の感性でしょう。

先ほどの例で言えば、たとえば小林よしのりの漫画に3頁に1個、(議論が分かれるレベルのものではなく)たとえば平安時代と室町時代を間違えているクラスの誤りが数頁に1か所の割合で存在していたら、論敵からどれほどの批判がされるかは想像に難くありません。

「平安時代と室町時代を間違えているクラス」というたとえは、決して誇張ではありません。実際、橋爪大三郎は「東西ローマ帝国の分裂(395年)後しばらくして(東西)両教会合同の公会議が開かれなくなった」などと言っていますが、最後の全地公会議は約400年後の787年に開かれています。約400年間という時間に主要な因果関係を設定し、「しばらくして」という表現をすることが妥当でしょうか?こういうレベルの誤りが膨大にある対談につき、本当に「大枠では面白く解り易い」話が成立していると言えるのでしょうか?


左右の歴史認識論争では絶対に通らないクラスの間違いが、キリスト教入門書で堂々と罷り通って賞まで獲得した。この事実そのものが、日本においてどれほどキリスト教がいい加減に扱われているかを示しています。

いや、仏教は唯物論であると言ったり、「多神教では神との対話など出来ない」と言ったり、イスラムについての基本的無理解などを鑑みれば、宗教全体がいい加減に扱われていると言っていい。大体、仏教や多神教の説明をみて「あれ?おかしいぞ。キリスト教についてもこんな調子なのか?」と殆どの人が思えない辺りが、日本人がキリスト教のみならず、仏教も神道の事も何も知らずに、ぞんざいに扱っていることが解ります。


このように(他宗教もそうですが特に)キリスト教がいい加減に扱われている現状に対して、事態の悪化を食い止めるどころか、「大枠で面白く解り易ければいい」として評価する知識人・書店が大勢居る。あろうことか賞まで与える組織がある。このような「片棒を担ぐ」行為をしている人を、私は強く批判せざるを得ません。


以上のような信教に関係ない誤謬だけが問題ではありません。キリスト教関係者内部の問題があります。


キリスト教関係者が「キリスト教入門書」を評価するのなら、

* 基本的な事実誤認が無いか
* 超教派を謳っているものであれば、教派ごとの中立的観点は満たしているか
* 教会に足を運び、救いのきっかけとなるものか

以上3点を評価のポイントとすることについては、そう異論は無いと思われます。

そして「ふしぎなキリスト教」はどれも落第点です。

基本的な事実誤認についてはウィキをご覧下さい。

教派ごとの中立的観点ですが、『ふしぎなキリスト教』は殆どが通俗的かつ乱暴な予定説に貫かれており、正教会における共働説、ローマ・カトリック教会における幅広い考え方、聖公会・プロテスタントにおけるアルミニウス主義などは全て無視されています。ちなみに橋爪氏はルーテル教会の信者なのですが、ルター派にはP.メランヒトンもおり、『ふしぎなキリスト教』で単純化されたような予定説一色ではありません。御自分の所属教派の考え方も歴史も一切知らないで、一体何の入門書でしょうか。

ただでさえ「キリスト教と言えば予定説」という誤解が罷り通っている日本において、誤解を助長するだけです(誤解に阿る傾向があるからこそ売れたのだとも言えます)。

教会に足を運び、救いのきっかけとなるかについては、読んだ人にとってはもはや自明でしょう。成り得る筈もありませんし、はなからそのような目的は著者二人にはありません。著者二人は「欧米理解のため・近代理解のため」に書いて居ます(その目的も達せられないほど酷い内容ですが)。

神は「キレまくるエイリアン」、聖霊は「連絡手段」、ハリストス(キリスト)の復活を含めた奇蹟は「傍証・付録みたいなもの」、Godを信じるのは安全保障のため、…こんな言葉が羅列されている本を読んで、誰が「教会に行きたい、教会で救われたい」と思えますか?

この本を勧める牧者・キリスト教関係者に、私は大きな疑問を感じざるを得ません。


最後に申し上げます。

こうした出鱈目な「キリスト教入門本」は、巷間に溢れています。出鱈目な知識や設定に基いた小説・漫画は山ほどあります。

それら全てを批判するべきだとは私は思いません。特に小説・漫画などは「それを読んで勉強できる」とは思われていないことが殆どですし、数々のパロディ作品にまで一々目くじら立てるべきだとも思いません。小説・漫画・映画などは多少の間違いがあっても面白ければいい、と評価されることは(限度はありますが)アリだと思います。

そして私も、4か月ほど前までは、「ふしぎなキリスト教」もそれほど批判する必要はないと思っておりました。「またコンビニに並んでいるハウツー本クラスの出鱈目本が一冊出たのか。新書といっても最近は玉石混交だし」程度にしか思いませんでした。

ところがこれが「新書大賞」を受賞し、あれよあれよと言う間にキリスト教各界で肯定的に評価されて「教会はこれを真剣に取り上げなければならない」とまで言う牧者・教授がキリスト教の中から少なからず出てきている。

評価する動きがキリスト教・大学から出て来なければ、私も別にここまで批判することはありませんでしたが、ここまで酷い状況は看過することは出来ません。教会全体が批判する必要があるとは思えないほど馬鹿げた本ですが、数人ほどは、教役者から批判の声を挙げた方がいい段階に来ている。私はこう判断し、ツイッターと、自身が立ち上げたウィキで批判を行うに至りました。現状、ウィキの執筆は私一人ではなく、もう二人、御協力を頂いております。同労者の方に感謝しております。

なおウィキシステムを使ってはおりますが、「誰でも編集出来る」ようにはしておりません。管理者の承認が必要な形態をとっております。


※たとえば仏教やイスラームについて、一冊読んで「解った」などという事が有り得るのでしょうか。いや宗教に限らず、哲学・藝術・自然科学でも、一冊読んで「解った」などという事は有り得ません。なぜかキリスト教だけは「入門書」が山ほど売られ、八木谷涼子氏によるような一部例外を除き、人を「解った気にさせる」悪習がある。そろそろこの悪習をやめるべきです。

※ 本文章は、前ブログを閉めた事に伴いネット上から除去した2012年5月25日に書いた文章を、復活再掲したものです。