正教についてのよくある質問・誤解に答えます

2014年12月 1日 (月)

メディア関係者さんへお願い:コンスタンティノープル総主教聖下の名前表記(現代ギリシャ語で)

現在の全地総主教(コンスタンティノープル総主教)聖下のお名前、いつもマスメディアでの表記が気になって居ます…。バチカン支局経由での記事が多いからか、なぜかイタリア語表記な記事を最近多く見かけますが…。

たとえば英国人のジェームズをイタリア語風に「ジャコモ」とは、イタリア支局発の記事でも書かないハズです。

ちょっと知っている人だったら、半端なものではない違和感・可笑しさがあります。マスメディアさん・記者さんがたには、どうか今後、御修正を宜しくお願いします。現代ギリシャ人・ギリシャ系の人物名と役職名には、現代ギリシャ語表記を使って頂きたいと思います。

追記:在エストニア日本国大使館ウェブサイトで「ヴァルソロメオス」「コンスタンディヌーポリ」の使用例を確認

―――
お名前
【許容範囲と私が感じる表記】

ヴァルソロメオス1世 - 現代ギリシア語からの転写。
バルソロメオス1世 - 現代ギリシア語からの転写「ヴァルソロメオス」の「ヴァ」を、「バ」に置き換えた表記(マスメディアからの質問に対し、「ヴァ」が難しければ「バ」にして下さいと申し上げて、これを勧めたことがあります)。
◎ ワルフォロメイ1世 - 日本正教会訳聖書や奉神礼で使われる表記。中世ギリシャ語から教会スラヴ語に転写されたものをロシア経由で日本語に転写したもの。

―――
役職【許容範囲と私が感じる表記】

○ コンスタンディヌーポリ総主教 - 現代ギリシア語に由来する転写。
コンスタンティノポリ総主教 - 日本正教会の奉神礼で使われる転写。中世ギリシャ語から教会スラヴ語に転写されたものをロシア経由で日本語に転写したもの。

―――
お名前【許容範囲と私が感じる表記】

× バルトロマイオス1世 - 古典ギリシア語再建音…なんで現代人に古典の再建音を?古典再建音と現代の言語の読みが全然違うというのはギリシア語に限らず日本語もそうです。上代日本語の発音で今の日本人の名前を読むようなものです。参考→ 上代日本語の発音で百人一首ランダム読み上げ Random reading of Ogura Hyakunin Isshu (in Old Japanese, 8c)
× バルトロメオ1世 - イタリア語…なぜイタリア語(?_?;)イタリア駐在の記者さんなんかがよく書いているんですが、他地域にもイタリア語読みを適用するんでしょうかね?
× バーソロミュー1世 - 英語…なぜ英語(?_?;)
× バルトロマイ1世 - 日本聖書協会による、聖書中に登場する同名の使徒の転写…こう書く方は、たとえばジョンさんを「ヨハネさん」って書いたりするんでしょうかね?

―――
役職【許容範囲と私が感じる表記】

△ コンスタンティノープル総主教 - 英語…なぜ英語?という疑問が拭えません。しかしあまりに定着してしまいましたから「×」ではなく「△」で…。許容範囲なのに記事タイトルをこれにしたのは、検索に引っ掛かり易くするためです。
× コンスタンティノポリス総主教 - ラテン語…なぜラテン語?

―――
「◎」で表した日本正教会での表記が使われるともちろん嬉しいのですが、「中世ギリシャ語から教会スラヴ語に転写されたものをロシア経由で日本語に転写したもの」を一般のマスメディアで使うことを要請するのは無理があるかとも思います。ですので現代ギリシャ語からの転写を色つきで強調しておきました。

【2014.12.02, 19:55追記】先程、ここ最近で「バルトロメオ1世」の使用例がある共同通信、時事通信、毎日新聞、日経新聞、バチカン放送局さんに、「ヴァルソロメオス1世、せめてバルソロメオス1世の表記を何卒お願いしたい」要請メールを出しました。

【2014.12.05, 22:06追記】昨日、共同通信さんと時事通信さんから、本日、毎日新聞さんからお返事を頂きました。詳細は後日書くかもしれません。まずは共同通信さん、時事通信さん、毎日新聞さんに感謝申し上げます。御返信ありがとうございました。今後とも宜しくお願い申し上げます。

2013年12月10日 (火)

降誕祭(クリスマス)の意味(一人、イルミネーション、夜勤などの話題も)

今年も降誕祭・クリスマスの季節がやって参りました。

人生で「幸福だ」と思える時はとても少ないものです。ですから降誕祭に恋人や家族と思い出を作っている人に、殊更に水を差すつもりは有りません事を前提としてお断り申し上げます。

 リア充(男女のカップル)向けのイベントというもったいない理解

降誕祭が「リア充(男女のカップル)向け」とのイメージで語られる事について、「信者は腹を立てるのではないか」と言われる事があるのですが、特に腹が立つ、という事はありません。

ただ、「クリスマス撲滅運動」というものが反発として世間の一部で起きてしまっている事と併せて、「怒る」というよりも、「大変残念」な気持ちが致します。本来の喜ばしい意味が欠片も伝わっていないからです。

また、少子高齢化が進み、かつカップル率がどんどん下がっている今、「カップル対象の祭」なのであれば、その対象となる人は年々減っている事になります。

主の降誕祭(クリスマス)が、どんどん少なくなっている限られた幸せな人を主な対象とする祭りと思われる事は、大変残念で、もったいない話です。

 降誕と、イルミネーションの意味

主の降誕祭(クリスマス)は、真の神であり真の人でいらっしゃる、主イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)が、私たちと同様に女から生まれ、この世に来られた事を記憶する祭りです(※1)。待ち望んでいた救い主がこの世にお生まれになった事を喜びます。

真の神であり真の人でいらっしゃる主イイススがこの世にお生まれになった事で、この世が輝かしいものとなりました。ですから教会でもイルミネーションを飾り付けてお祝いします

実にイルミネーションは、日本で行われているクリスマスの習慣の中でも、教会的な意味が失われていない、数少ない習慣の一つです。

※1…子供向けに「分り易く」、「イエス様の誕生日だよ」と説明する事がありますが、本来は教会においても、教会外においても、「誕生日」とは捉えられていません。古代には5月にお生まれになったのではないかと推測された事もありました。主の降誕祭は、あくまで「主イイスス(イエス)の降誕を【記憶する日】」であり、「誕生日」ではありません。

 「心の貧しい者はさいわいなり」(マタイ53節)

注目すべきは、最初に幼子・主イイスス(イエス)を礼拝しに来たのは、羊飼いであったという事です。羊飼いは金持ちではありませんでした(※2、※3)。次に礼拝に来たのは、異邦人の博士たちでした。

主イイススは洞穴にお生まれになりました(※4)。宿屋は人々で一杯だったからです。

救世主を待ち望んでいる筈のユダヤ人達は、羊飼い達を除いて、幼子イイススを礼拝しにやって来ませんでした。礼拝にやって来なかったばかりか、宿一つ、提供することもありませんでした。

これは当時のユダヤ人達だけに限ったお話ではなく、現代の私たちにも向けられたお話です。しばしば(信者、非信者問わず)、私たちの心もこの世の事で一杯です。主イイスス・ハリストスをお迎えする余地がありません。 

主の降誕祭(クリスマス)は、私たちの貧しさ(心の貧しさ)を自覚する謙遜さと、主イイススをお迎えする心の余地が私たちに必要な事を教えてもいるのです

それは主の降誕祭に限らず私たちに求められる心構えですが、主の降誕祭は特にこの事を想い起す機会です。

※2…そしてもちろん、羊飼いが主イイススを拝みに来た時、異性同伴ではありませんでした。

※3…聖書において「貧しい」「貧しさ」と言った場合、「この世の富」を意味するのではなく、「心・たましいの貧しさ(を自覚する謙遜さ)」と結び付けて解釈されます。自らの「心・たましいの貧しさ」を自覚する謙遜な人は、神に喜ばれるさいわいな人です。この世の富という面での貧しさは、心の貧しさの自覚という謙遜に結び付くきっかけでもあります

※4…正教会の伝承では「馬小屋」ではなく「洞穴」となっています(実は聖書には「馬小屋」とは書かれていません)。羊飼い達が飼料を置いて利用していたのは、荒野の洞穴であり、ここに主イイススがお生まれになったと伝えています。羊飼いが拝みに来た時は、主イイススは生まれたてで洞穴においでになり(ルカによる福音書2章8節~20節)、異邦人の博士たちが拝みに来た時には家に移って居ました(マタイによる福音書2章1節~12節)。

 「家族のための祭り」なのでしょうか

降誕祭はカップルのためではなく、家族で祝う祭り、と説明される事があります。確かに家族でお祝いする事が出来る人は幸いですし、神様もそれを喜ばれます。

しかしながら、主イイススを礼拝しに来た人々は「家族」ではありませんでした。家族とともに過ごす事すらできなかった貧しい羊飼い達が夜中、野宿して羊の番をしている時に(夜勤中)、天使たちからのお告げを受けて、幼子を拝みに向かいました(※5)。

先程、「イルミネーションは教会の教え(この世が救世主の降誕によって輝かしいものとなったこと)に一致します」と説明しました。

独身の方が、また夜勤中の方が、街を歩いていてイルミネーションを一人で見る時、「世間ではカップルがこれをロマンチックに観ているのに、家族が一緒に楽しんでいるのに、自分は…」とは、どうか思わないで頂きたいと思います。

主イイススを礼拝したのは、カップルでも家族でもなく、夜勤中の羊飼い達であり、遠くからやって来た異国人達でした。

主イイススを待ち望み、心に主をお迎えする余地があることが大事です。

一人でも、恋人・友人・家族と一緒であっても、いずれであっても「神であり人である主イイススを、心に余裕を用意してお迎えする」事が、降誕祭の本当の「意味」になります。

※5…聖使徒シモンとアンデレも、海に網を打っている時(労働中)に主イイスス(イエス)に声をかけられ、主イイススに従いました(マタイによる福音書4章18節~20節)。羊飼いも聖使徒達も、労働中に神に呼ばれました。これは労働が、神に喜ばれる、神に向かう機会であることを示しています。修道院で祈りと労働が大事にされて来た伝統に反映されています。「キリスト教では、労働は神による罰」というのは通俗的によく言われますが、ごく単純な誤りです(ただしもちろん、過労も、労働の強要も間違いです)。参考トゥギャッターまとめ→キリスト教は労働を否定している?

 降誕祭を「静かに過ごす」事の意味

降誕祭の夜(クリスマス・イブ)は、一人の人も交際中の男女も家族も静かに過ごすよう古くから教会で教えられています。主イイススをお迎えする余地を心に静かにつくるためでもあり、また、私たちが神様をお迎えする余地をしばしば心に用意していないことを反省する機会でもあるからです。

街のイルミネーションを御覧になった時、一人の方も、カップルも、御友人で集まっている人達も、御家族も、どなたがこの世にお生まれになったことでこの世が輝かしいものとなったのかを思い出して頂きたいと願っております

そして、主イイススを礼拝する輪に、一人の方・恋人同士・友人同士・家族、どなた様も加わって頂きたいと願っております

羊飼い達だけでなく、異邦人達も礼拝に来ました。

教会はどこかの民族・人種のためのものではなく、全ての人を救いの道に招いています。

 日付

ニコライ堂(正教会の教会です)での奉神礼(礼拝)日程

○ 122418時半~20時半頃(新暦降誕祭 晩祷)

122510時~12時頃(新暦降誕祭 聖体礼儀)

1618時~20時頃(旧暦降誕祭 晩祷)

1710時~11時半頃(旧暦降誕祭 聖体礼儀)

* 終了時刻は毎年変動し、もっと伸びるなど、上記と異なる場合があります。予め御了承下さい。

* 信者ではない方も御参祷頂けます。聖堂にいらした際には、入口におります名札を付けた係りの者の指示に従って下さい。また、聖堂入口での蝋燭献金への御協力をお願いします。

2013年6月28日 (金)

「同じ」なのか「違う」のか。異宗教間・東西教会間。(よくある質問・誤解に答えます)

以下4つのパターンの質問を実際に受けた場合に私がお答えするパターンについて、今日は書きたいと思います。

  1. キリスト教と仏教(ないし神道)って、拝んでいるものが神様か仏様の違いというだけで、両方とも同じ似たような宗教なんでしょ?
  2. 正教会とカトリック(ないしプロテスタント)って、両方とも同じキリスト教なんでしょう?
  3. キリスト教と仏教(ないし神道)って、全然違うんだよね?戒律がすごく厳しいのがキリスト教で、すごく緩いのが仏教だっけ?あれ?逆?
  4. 正教会とカトリック(ないしプロテスタント)って、全然違うんだよね?三位一体も信じてないんでしょ?カトリックが一番古くて、プロテスタントが新しくて、正教会ってなんか変わった教会なんだよね?

大体、1と2のパターンでは「いや、違いはありますよ。それはかくかくしかじか」と答えて、3と4のパターンでは「いや、そこまで違わない。同じ所もありますよ」と答えてます。

何か天邪鬼のようにも思えますが、そうではありません。大体、

  • 思われている程には違わない
  • 思われている程には同じでは無い

が当て嵌まるんです。要するに極端に違うと思われているか、極端に同じと思われているかの二パターンが多いのです。

上記の4つの質問パターンへのそれぞれの私のお答えを書いていきます。

質問1.キリスト教と仏教(ないし神道)って、拝んでいるものが神様か仏様の違いというだけで、両方とも同じ似たような宗教なんでしょ?

拝んでいるものが違うことは勿論ですが、生活にどのように信仰を活かすかといった場面や考え方においても、小さく無い違いがあります。

そもそも「拝んでいるものが違う」ことは「大した違いでは無い」という発想自体に何らかの価値観が投影されています。たとえば「愛している異性が誰なのか」は「大した違いでは無い」とは思われませんことを考えてみましょう

「宗教においてはそうした『誰を拝むか』は大きな違いでは無い」という考え方も人によってあろうかとは思いますが、少なくともそう考えない人も居るということです。

質問2.正教会とカトリック(ないしプロテスタント)って、両方とも同じキリスト教なんでしょう?

確かに、正教、ローマカトリック、プロテスタント、いずれもキリスト教ではあります。正教会においてもローマカトリックの洗礼は有効としますし、プロテスタントの洗礼も一定の条件と手続きを満たせば有効とします。同じくキリスト教だからこそ、そうした事が可能です。

しかし小さく無い違いがあることも事実です。

聖伝の位置付け、イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の復活に際しての地獄降りの見方の違い、原罪観の違い、ローマ教皇の地位・権限をめぐる見解の違い、など色々挙げられます。

直接的な違いとして挙げる事が出来る教会生活での例としては、痛悔(つうかい、正教会以外では懺悔等とも)における神父の応えです。正教会においては「償い」は求められませんが、ローマカトリックでは「償い」が言われます。その背景にある違いは決して「小さな違い」ではありませんし、教会生活の日常にはっきりと表れる違いでもあります。

質問3.キリスト教と仏教(ないし神道)って、全然違うんだよね?戒律がすごく厳しいのがキリスト教で、すごく緩いのが仏教だっけ?あれ?逆?

「戒律」というのがどのようなものを想定して仰っているのかよく分りませんが、おそらくそのような御質問をされるように思われているほど大きな違いはありません。

特殊なカルトでもなければ、一定程度嗜好品やお酒といったものについて節制をし、拝金主義や即物的な生き方に陥らないようにして、出来る限り善い生き方をする、献金・お布施は生活が破綻しない程度に、しかし信仰心から納める。表面的に表れるこれらの要素については、そう大差ありません。また、「殺すなかれ淫するなかれ」は、キリスト教でも仏教でも共通する倫理でしょう。基本的な倫理面では共通するところは多々あります。

「教え」については小さく無い違いはあるものの、それは「戒律の厳しさ」と単純に言えるように表れるものではない、と言えます

キリスト教の中ではお酒を一切禁じる教会もありますが、そうでない教会もあります(正教会は飲み過ぎは勿論戒められますが、お酒自体は禁じられていません)。この辺りは仏教でもお寺・宗派ごとの違いや個人差があると思われますが、それと同じです。

なお、「お酒を禁じる教会が戒律が厳しく、禁じない教会は緩い」かというと、それも一概には言えません。

お酒を禁じて居ない正教会は、ハリストス(キリスト)の体と血になったパンとブドウ酒を頂く礼拝(聖体礼儀)の前晩(深夜0時が目安)から、断食をする習慣を今でも守って居ます。

他方、お酒を禁じるか基本的に飲まないようにするプロテスタントの多くの教会は、こうした断食の習慣を残して居ません。

さあ、どちらが「厳しい」と言えるかは微妙なところです。しかも注意しておきたいのですが、信者の大半は、この程度の節制を「厳しい」とは思って居ないことがほとんどです。習慣として定着して居ますから。

大雑把にまとめますと、身体を痛めつけるような苦行が問題になるようなカルトは別として、大体の伝統的教会は、一概に「どちらが厳しい、どちらが緩い」とは言えないという事です。

質問4.正教会とカトリック(ないしプロテスタント)って、全然違うんだよね?三位一体も信じてないんでしょ?カトリックが一番古くて、プロテスタントが新しくて、正教会ってなんか変わった教会なんだよね?

三位一体は正教会も信じて居ますし、イイスス・ハリストスが真の神であり真の人でいらしたことについて正教会も信じて居ます。

少なくとも正教会は、自らの教会が最も古く伝統的でかつ正統的と考えています。西方教会(カトリックやプロテスタント)が正教会から分かれて行ったと考えます。

これについては、それぞれの教会の主張があります。私も、「客観的に正教会の主張が正しい」と強弁するつもりはありませんしそうするべきでもありません。ただ、あくまで正教の信仰に入れば、必然的にそのような見方になりますし、「客観的に証明」は難しいとしても、そう信じられるだけの根拠は存在しています。

他方、こうして正教会は自らの正統性を自覚しているわけですが、正教会と西方教会が、「全く別物」(どちらかがキリスト教で、どちらかはキリスト教では無い、とか)かというと、それもまた言い過ぎです。

西方教会において父と子と聖神(せいしん、聖霊)の御名によって授けられた洗礼は、正教会においても一定の条件を満たせば有効とされるわけです。正教と西方教会は「全く別物」であれば、正教において西方教会の洗礼が有効になど成り得ません。

ただし、正教会における領聖(りょうせい、ハリストス:キリストの尊体尊血となったパンとブドウ酒を頂くこと)は、正教信者のみが可能であり、西方教会(ローマカトリック、プロテスタント)の信者には許されて居ません。それはやはり他の教会とは違うという事の表れでもあります。違いはやはりありますね。

-------------

以上のように、

  • 思われている程には違わない
  • 思われている程には同じでは無い

大体こういう方向で、それぞれの極端な見解を和らげる方向に御答えするようにしています。

2013年6月17日 (月)

正教会ってギリシャ正教会とロシア正教会ですよね?(よくある質問・誤解に答えます)

カテゴリ:正教についてのよくある質問・誤解に答えます

質問:正教会ってギリシャ正教会とロシア正教会ですよね?

Orthodoxchurches_2 答え:正教会には、他にももっと沢山の教会組織があります。コンスタンディヌーポリ総主教庁(コンスタンティノポリ総主教庁)、アレクサンドリア総主教庁、エルサレム総主教庁、アンティオキア総主教庁、グルジア正教会、ブルガリア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会…などです。

もちろん、これらを全部覚えて頂く必要はありません。

ただ、「ギリシャ正教会」「ロシア正教会」だけが挙げられることがしばしばあるのは、数ある正教会組織の中で日本で知名度が高いツートップ、以上の意味は無いということを申し上げたいと思います。数ある正教会組織の中で、この二者だけを代表扱いとする事には、正確性も合理性もありません。

単に「正教会」と言うのが最も「(正しく)わかりやすい」のです()。

なお、これら複数の教会組織(独立正教会、自治正教会の数々)が存在することを、「正教会の分裂」と表現されているケースがありますが、「分裂」ではありません。

たとえば、娘が母親から財政的に自立してOL生活を始めた場合、「家族関係の分裂」とは誰も思わないはずです。正教会も同じでして、財政的に自立して独立正教会、自治正教会となっても、それは「関係断絶」「分裂」ではありません

Photo_6

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

この 画像(「家族にたとえることができる正教会」) は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承 2.1 日本 ライセンスの下に提供されています。(原著作者が要求するクレジット:クリメント北原、ブログ「神田御茶ノ水草子」)


どういうわけか

  • (正教会は)北はロシア正教、南はギリシア正教
  • 正教会(ギリシャ正教会、ロシア正教会などとも呼ばれる)

などと本や記事などで書かれることがあります。これらは、正教会全体の総称と、個別の教会組織の名称を混同しているものです。

おそらくは、「日本で知名度が高いギリシャ正教会、ロシア正教会と言った方が、正教会についてイメージし易いだろう」という、善意で仰っておいでなのだろうと思います。

ただ、特に作家さんや研究者さんに申し上げたいのですが、こうした「善意」による記述も、どうか今後は、止めて頂きたいというのが率直な願いです。「分り易くした」つもりが、別の誤解(「正教会はギリシャ正教とロシア正教に分れている」「正教会はギリシャ正教会とロシア正教会の二つ」など)を生む元になっていますので…


「ギリシャ正教」(ギリシア正教とも)は、正教会全体を指す通称として使われることがあります。正教会がギリシャ語圏を主に基盤として発展した事に由来していますし、この意味で総称としての「ギリシャ正教」は間違いではありません(日本人長司祭でいらっしゃるイオアン高橋保行神父様も「ギリシャ正教」の書名で本を書いておいでです)

  • ギリシャ一国を管轄するアテネ大主教が指導するギリシャ正教会と、全体の総称としての「ギリシャ正教」は混同しやすい。
  • コンスタンディヌーポリ総主教庁と(アテネ大主教に指導されている)ギリシャ正教会は別組織、といった事情について、少し学びを進めた段階で、かえって混乱を呼ぶ。
  • ギリシャ語だけでなく、シリア語も重要な言語であった時期があった。
  • 東欧に伝道されてからは、それぞれの地域の言語(教会スラヴ語、グルジア語、ロシア語、ブルガリア語、セルビア語、ルーマニア語など)でも祈祷文や関連書籍が書かれ、奉神礼(礼拝)が行われてきている。

といった理由から、私個人は初心者さんに「ウチはギリシャ正教とも呼ばれている正教会です」と最初に説明する時以外は、あまり言わないようにしています。「ギリシャ正教」は総称としても使われるが、「ギリシャ正教会」は総称としてはあまり使われず、アテネ大主教が指導する独立正教会たるギリシャ正教会を指す際に使われることが多い、という事情も絡んで参りますし。

2013年6月14日 (金)

正教会はローマカトリックやプロテスタントとどう違うんですか?(よくある質問・誤解に答えます)

カテゴリ:正教についてのよくある質問・誤解に答えます

質問:正教会はローマカトリックやプロテスタントとどう違うんですか?

答え:特に「カトリックとの違い」を質問されて来られる方が多いですね。主教(司教)は居る、聖体礼儀(ミサ)はある、祭服も使っている、では何が違うのか?と。(括弧内がローマカトリック用語)

プロテスタントは少し調べれば、主教(司教)は居ない、聖体礼儀(ミサ)もしないか少ない教会が多いし理解も全く違う事が殆ど、第一祭服など使わないので見た目がはっきり違う…ということで、「正教とプロテスタントはどう違うんですか?」と聞いて来られる方は比較的少ないです(※1)。

申し訳ありませんが、今回はあまり沢山、具体的に書きません(ですから全然「答えます」になっていないじゃないか、と思われるかもしれません)。具体的な違いは、後日少しだけ書くかもしれません。


● まず、「違いを知る」「違いを説明する」というのは大変難しいのです。

「違いを知る」というのは、とても難しい事です。「違いがある」までは分る事が簡単なものであっても。

例えば日米の文化を比較する際。
日米の文化が違う、までは分ります。
しかし、「どう違うのか」「何が違うのか」を知り、それを総論にまとめあげていくのは大変な事です。日米両国の文化に精通し、かつそれをバランスよく比較出来なければなりません。

正教とローマカトリックを比較する際も同じです。
「正教とローマカトリックは違う」までは分ります(ローマ教皇の有無、奉神礼(礼拝)の違いなどは一目瞭然です)。
しかし、「どう違うのか」「何が違うのか」をまとめ上げて行くのはとても大変な事なのです。特に「まず正教について基本的なところで間違っているような段階で、比較などとんでもない前提知識状態」で「比較」について書いている人をよく見かけるのですが、少々如何なものかと思われます。…これは自戒を込めますが(※2)。


● 同じキリスト教なのに、なんでそんな違いがあるの?

どうしてなのでしょう?私にも解りません。少なくとも言える事は、正教会は「他(西方教会)から分かれた」とは自認しておらず、むしろ「西方が当方(東方)から分かれて行った」と捉えて居るということです。

「違う教えを正教が立ち上げた」という認識はありません。西方教会について言えば、「気付いたら離れて行った人たちが居た」という認識です(※3)。

正教、ローマカトリック、プロテスタントで、無闇に喧嘩したり、最悪な場合戦争になったりするような事はしてはならないことであり、「仲良くすべき」ではありますが(※4)、かといって「違いが無い」と言ってしまうと、これは「偽り」「ウソ」になります。

なお、こういう風に「違い」が存在しているのは、イスラームでも仏教でもそうです。同じ経典、同じ教祖から発している筈なのに、なぜか大きな違いがあります。


● 「何が違うのか」の視点を、いったん脇においてみてはいかがでしょう

たとえば寿司職人は、わざわざイタリア料理と寿司がどう違うかと主張することを必要としません。

寿司屋さんに入るお客さんも「ここはイタリア料理とは違うお店」といったことを(普通・普段は)意識して入りません。「お寿司食べたいなあ」で入るだけです。

正教会でも、単に「正教会の祈りや聖堂を見てみたい、祈って見たい」で入れば良いのです。

まず「ローマカトリックと何が違うのか」ではなく、貴方だけの「正教との出会い」を、五官をフルに使って味わって下さい。考える、比較するのはその後でも出来ます。


※1 本当は表面的な違いよりも、むしろ背景にある聖伝についての考え方とか、聖書に対する姿勢とか、神学についての違い(「神学の違い」だけでなく、「神学に対する態度の違い」も含めて)を挙げて行けば、正教とプロテスタントは見た目通りか、それ以上に違うということが分りますが…1回のブログで書ける内容では無いですね。

※2 いずれもう少し具体的にローマカトリックとの違いを具体的に列挙して行こうとは思っていますが、私の限界があります。特にローマカトリックについては本当に「よく知らない」ので…「私が知っている範囲では、これこれが違うということは判ります」という事しか述べられません。

※3 …もちろんローマカトリックは全く逆の見方をしていますし、プロテスタントにも別の歴史認識がありますが…。

※4 しかしこの「仲良く」も人によって「どのように」で意見が分れるので悩ましいところです。

2013年6月13日 (木)

ニコライ堂はロシア正教なんですよね?(よくある質問・誤解に答えます)

カテゴリ:正教についてのよくある質問・誤解に答えます

ハリストス復活!実に復活!

伝教者として(肩書当時。※参照)ニコライ堂で電話とっていたり拝観客の応対をしていますと、必ず週1回以上の割合で「お宅はロシア正教の教会なんですよね?」という問い合わせが来ます。

違います。
ウチは「正教会」の教会であって「ロシア正教会」ではありません。

Orthodoxchurches_2

「正教会」が教会名
「ロシア正教会」というのはロシア連邦を主に管轄する教会組織の名称です。
ちなみにニコライ堂は、教会組織上は日本正教会に所属しており、その首座主教座大聖堂としての役割を担っています。

これは、「瑣末な事柄にこだわっている」のではありません。
そういう質問をして来る人は十中八九、「ロシア正教っていうのは、ロシアに独特な、フツーじゃないキリスト教だけど。それが日本にもあるんだね。」という風に誤解しています。

しかし、組織としてのロシア正教会のみが有する教義・教理・神学などありません。
グルジア正教会、ブルガリア正教会、ロシア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、ギリシャ正教会など、多くの個別の組織が、同じ信仰・教義・教理をもって、同じ正教会の一員として、聖なる公なる使徒の教会を形成しています。

…お問い合わせに応対する際には丁寧に柔らかく申し上げますが、いつになったらこうした誤解が日本から無くなるのかと、正直言って暗澹たる想いが内面にはあるのも事実です。

カトリックは「イタリアの教会」とは思われない。
プロテスタントは「ドイツの宗教」とは思われない。
聖公会は「イギリスの宗教」とは思われない(※)。
…しかし正教会だけは「ロシアの宗教」、あるいは別のケースでは「ギリシャの宗教」と思われることが非常に多いのです。

※歴史好きな人は「聖公会」=「英国国教会」と思うかもしれませんが、しかし歴史に特に興味の無い一般人が「聖公会」と聞いて「ああ、イギリスの」 とは思わないでしょう。逆に、特に興味の無い一般人が「正教会」と聞けば「ああ、ロシアの」「ああ、ギリシャの」と思われるでしょう。

最終的には外部の方の印象にまで、私が立ち入ることは出来ません。
もちろん、きっかけとしては、「ギリシャ好き」「ロシア好き」から正教の門を叩かれることもアリですし、歓迎申し上げます。ようこそ正教会へ!

しかし内部の信仰者としての立場から申し上げれば、
正教は「聖なる公なる使徒の教会」
なのであって、特定の国や地域に限定されるものでは無いということは、前提として強調しておきたいと思います。


抽象的な話ばかりでは解り難いと思われますので、具体的な私のケースを挟みたいと思います。

私の聖名の「クリメント」は、アレクサンドリアの聖クリメント(クレメンス)や、オフリドの聖クリメントといった、東地中海や東欧で活躍された聖人から頂いたものではありません。

ロマのパパ・クリメント(ローマ教皇クレメンス1世)です。

私は東西教会分裂以前の聖人のお名前で、アメリカ人宣教師と、牧師である父から、プロテスタントで幼児洗礼を受けました(父の所属する教派では幼児洗礼自体珍しく、私の幼児洗礼についても色々そこそこ、教会内で議論があったと聞いています)。

正教に帰正する際には、聖名を変えるかどうかで悩みました。が、結局変えませんでした。実は帰正してから知ったのですが、聖クリメントはクリミア半 島に流刑になってそこで致命されておいでです。「西から東に流されて死ぬ」生涯を送られた聖人の名前が私に与えられたのも、きっとただの偶然では無く神の 御心 だったのでしょう。

4歳の時に「東地中海の方で土着化した独特のキリスト教があるから、勉強になるから連れて行く」と父に言われて見学に行ったニコライ堂の奉神礼の印象が幼心に強烈で、それ以来ずっと心に引っ掛かっていた、それが私の正教との出会いでした。

特に「ギリシャやロシアが好きだから」行った訳ではありませんし、両国含む東欧に特に関心・興味があった訳でもありません。むしろ(有体に言って)領土問題などから、ロシアに対しては総じて良いイメージはありませんでした。

ただ予備校時代、決定論・無神論に陥って苦しんでいた時に、「ロシアの教会」「ギリシャの教会」ではなく、あくまで「教会の一つ」として、駿台予備校の近くにあったニコライ堂に行き始めた、それがスタートでした。

今でこそロシアの修道院に行ったりもしていますが、それはあくまで「長い伝統のある教会・修道院に行きたい」という願望に由来するものであって、行先はロシアで無くとも良かったのです。本音を言えば、ユーロよりもルーブルの方が旅が安上がりに済む、それが一番の動機でした。
…今ではロシアと自分は切っても切り離せない関係になっていますが…まさかここまで、自分とロシアとの繋がりが深くなるとは全く思っておりませんでした。しかし私にとってはあくまで「正教→ロシア」の順番に繋がったのであって、「ロシア→正教」ではありません。


『ロシア正教』じゃない、正教会はあくまで聖なる公なる使徒の教会である」に話を戻します。

なぜ聖なる公なる使徒の教会という前提を強く申し上げるかと言えば、それが教会の教えだから、というのが大前提ですが、他に主に二つ理由があります。

  • ロシアの教会とだけ思って来ると、失望するリスクが高い。←正教徒だからといってロシアに造詣が深いとは限りませんし、親露的とすらも限りません。ドストエフスキーの理解に正教がカギになるなど、正教の理解が東欧の文化理解に資する面は大いにありますし、ロシア文化から正教信仰に入られた方も 大勢いらっしゃいますが、「文化」が「信仰のメイン」と思われる方には、ちょっと心配になります。
  • 「どうせロシアだけの国家宗教でしょ?」とだけ思って、それだけで来ない人が居る。←勿体ない!

正教会は、あくまで救いのために神様が用意して下さったものです。
神の国はこの世のものではありません。
である以上、ギリシャのための教会でもなければロシアのための教会でもありません。
全ての地域のため、(貴方様含む)全ての人を招く正教会です。

ニコライ堂を含め、正教会に見学にいらっしゃる皆様には、「ロシアの宗教」「ギリシャの宗教」としてではなく、あくまでまずは素直に「教会」として、正教会に向き合って頂きたい。それが私の切なる願いです。

以下余談

よく「正教は土着化を目指す」という評を聞くのですが、ローマ・カトリック教会がラテン語を典礼に使っていた50年ほど前までなら兎も角、現代にあっては(数十年以上前までの歴史を語る場面以外では)あまり意味がある評とは思えません。

土着化を目指すと言うのなら、今の西方教会は相当土着化を目指し、各地の慣習を積極的に取り入れようとして居ます。
むしろ正教の方が、文化的多様性を無邪気に肯定するのではなく、「文化的な違いはこれまでと同様に尊重するが、聖なる公なる使徒の正教という視点もこれまで同様に尊重する」という、伝統的なバランスの着地点を、伝統的に苦慮して模索し続けているように私には思えます。

「呉服・着物を着た聖母子像の御絵」をカトリック系のお店でよく見かけますが、「呉服を着た生神女(しょうしんじょ)マリヤのイコン」は、多分日本正教会でも出て来ないと思われます。

※ 肩書当時。本文章は、前ブログを閉めた事に伴いネット上から除去した2012年4月25日 (水)に書いた文章を、一部修正の上で復活再掲したものです。

2013年6月11日 (火)

キリスト教って難しい?(よくある質問・誤解に答えます)

カテゴリ:正教についてのよくある質問・誤解に答えます

「キリスト教って難しくないですか?」という未信者(非信者)さんからの質問に対して。「私は難しいとは思いません。」はい終了…では始まりませんよね…

色々な視点からお話し出来ますが、ここでは二つだけ。


まず、「今、ある程度は分らないのは当然だと思いますよ」ということ。

私からすれば仏教こそ分らないです(神道も分りません)。

私は自分の住んで居る地域(東北・関東)が、親戚がたくさん住んで居る地域(関西、九州、中部、北陸)からはいつも離れていましたので、父方も母方も親戚達には仏教が多いのに、親戚同士でお寺で法事を行うといった経験がほぼ全くありません。つまりお寺との接点がほぼありません(ついでに、神社との接点もほぼありません)。

でも、こういう状態の私が「仏教は難しい」と言って良いのかどうか?単に「知らない」「接点が無い」だけだ、と仏教関係者からは思われるでしょうね。

それと。を使うのも、箸を使わない地域から来た外国人は、最初使うのに非常に苦労します。しかし半年も日本に滞在していれば、大体使い方を覚えます。

キリスト教も同じ事。要するに「難しい」と思っておいでの方は、「接点が無かったので今は分らない」「今はまだ慣れて居ない」だけでは?ということです

接点を増やそうとする前に「難しい」と言うのは語弊があるでしょう。単に「今は分らない」「今は知らない」のです。そして全く恥ずかしくありません。これまであまり触れてきたことがなければ、それは当然なのですから。気楽に正教会の神父に聞いて下さい(※1)。


次に、一部「難しそう」なところはあるにはありますが。「〇〇は難しい部分がある」というのと「〇〇は難しい」は違いますよ、ということ。

例えば、「自動車は難しいですよね?」という質問があったとします。

自動車の何が難しいのでしょうか?運転でしょうか?エンジンでしょうか?設計?組立のプロセス?メンテナンス?

どこに目を向けるか、どんな場で受け答えをしているかで、「難しい」かどうか、変わって来るのではないでしょうか。

自動車整備士も、「自動車って難しいですよね?」と、技師でも無い一般の人から聞かれたら、「…いえ?運転するだけならそんなに難しく無いですよ?」と思うのではないでしょうか(※2)。

正教の司祭である私も、「キリスト教って難しいですよね?」と言われた場合、「…いえ?信仰生活を送ることはそんなに難しくありませんよ?」と答えます(※3)。

もちろん神学部に行きたいとか、神学校に入って教会のために働きたいとか、そういう方からの質問であれば、答えの内容は変わってきます。でもそれは、自動車整備士を志す生徒・学生の疑問に、教師がどう教えどう答えるかは、一般のドライバーに対して答える内容とは違う、というのと、殆ど同じだと思います。


※1 ここで私は「カトリックの神父でもプロテスタントの牧師でも、誰でも良いのでキリスト教について聞いて下さい」とは申しません。この点での価値相対主義を私は認めませんし、正教、ローマカトリック、プロテスタントとでは、言う事が大分違います。三位一体などの教義については一致する所も少なく無いのですが、それぞれの違いを見ない振りして済ますことは出来ません。

※2 かなりザックリとしたもののたとえですので、この対比にも不十分さがあります。自動車整備士さんに「自動車って難しいですよね?」と質問したら、「運転って難しいですよね?」という意味での質問ではない、とは解ります。ただ、聖職者に「キリスト教って難しいですよね?」という質問は、「質問そのものが漠然としている」ところがあるんです。「…えーっと、信仰生活(運転)について聞いていらっしゃいますか?信仰生活(運転)はそんなに難しくありませんよ。それとも神学(整備)について聞いていらっしゃいますか?それは難しい面もありますが…」という感じが近いかもです(かなり乱暴な対照ですが)。別のたとえとしては、F1ドライバーに「自動車の運転って難しいですよね」と質問している、と言い換えてもいいかもしれません。「…?少なくともスーパーマーケットに自動車で買い物に行くのは難しくないのでは?」とF1ドライバーは思うでしょう(そもそも質問の意味が理解出来ないかも)。

※3 もし信仰生活を送る事が難しいのであれば、どうして「キリスト教信者が多数派」という国が有り得るでしょう?(反語)…加えて「運転」は生まれつきの才能が関わってくる面もあるかもしれませんが、「信仰生活」を「生まれつき」送れない人は居ない、という事も断っておく必要があります。

その他のカテゴリー